民主主義は「少数を尊重するべき」という人へ

「(民主主義は)少数を尊重するべき」という人は、

少数でも嫌だという人がいるときに、嫌だという人の財産を合意を得ることなく奪って何かをしようとするべきではない。

というルールを受け入れるべきではないだろうか?
これはごくシンプルな要請だ。

嫌だと言う人から合意なく財産を奪ってよいという人は、少数違憲を尊重しているとは絶対に言えないだろう。

つまり、「少数を尊重するべき」という人は、租税や社会保険料の強制負担に常に反対しなければならない。他人の財産を奪って、強制的に使途を決めることになってしまうからだ。

「(民主主義は)少数を尊重するべき」という人は、必然的に民主主義国家が存在することを容認しないはずなのだが、どこでどうやって折り合いをつけているのだろうか?

ちなみに、私は民主主義国家が存在することを容認しなくてもよいと思っている。

経済的自由の喪失

政府が人々の経済的自由を制限し、国家権力が統制するようになっていくと、人々は自分の人生を自分で選んで幸福を追求することが出来なくなってしまう。

市場競争にさらされない政府のサービスは、必然的に画一的になり、品質も低下していく。日本でも、ほとんど全ての人にとって割安とは言えなくなり、だがそれにもかかわらず、税負担を強制されているサービスが無数にある。

政府は、利回りがマイナスの年金を押し付けたり、十分な保険をかけずに事故を起こす原子力発電所を押し付けたり、適合できなくても逃れることのできない教育を税金を使って強制的に押し付けたりする。自由な市場では選択されないような品質のものを、政府の強制力によって押し売りしているのである。そして、政府とは本質的にそういう性質のものなのである。

政府のサービスは額面だけは無償だったり格安だったりするけれども、結局は税金として負担するので実質的に割高である。人々はそれを使い続ける。自分が使わなくても、他人は使うのであるから、税負担は続く。だから、使わなければ損になってしまうのである。

いつしか政府の統制下で決められた製品やサービスしか選べなくなってしまい、政府が良いと言ったものしか選ぶことができなくなる。政府の範囲が拡大するとき、自由は失われる。そこにあるのは国家に人生を統制された社会である。

政府は人々から直接的に私有財産を引き離し、政府の裁量によって使途を決めてしまう仕組みをいくつももっている。たとえば税金や、社会保険料の徴収、政府の紙幣発行に伴うインフレ税、様々な形で人々の経済的自由を奪っていく。同時に、公営社会保障や公教育、公共事業といった、公金の支出によるモノやサービスに人々を依存させることで、経済的自由を奪っていく。

人々が代替の選択肢を選ぶことができなくなると、不合理を強制されてしまう。経済的自由が失われて国家によって統制された社会では、政府の失敗によって膨大な不合理が社会全体に放置される結果が導かれる。

人々が自分で選んで幸福を追求するための基礎となるのは、経済的自由である。経済的自由を失った人々は、職業選択の自由を失い、教育を選択する自由を失い、他者を助ける余裕を失う。もはや自由に選択して生きることができなくなれば、不満があっても逃れることができないから、奴隷と同じである。

経済的自由を喪失した人々は、与えられたものを受け入れなければならなくなってしまうから、必然的に権力に隷属させられるのである。

人々が政治に頼る限り、窮屈な状況に不満をどれだけ叫ぶとしても、解決する手段にはならない。それどころか、より一層窮屈な状況に自分たちを追い込むことになるだろう。

 

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「金持ちにお金を使わなせなければならない」わけではない

「金持ちにどんどん金を使ってもらいましょう、贅沢してもらいましょう」

という人もいる。だが、金持ちにお金を使わせなければならないという主張は根本的に誤りだ。別に使ってもらう必要はない。

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公教育が包摂できない多様性

左利きに書き順を強いることを何十年もやめられない公教育に求めることができる「多様性」ってなんだろうか?

公教育が民主主義の多数決で選ばれる政府の下にある限り、せいぜい多数の大人が共感する範囲だけの多様性しか気にしない。

ぼんやりした大人が気づかないけれど子供でも分かるような差異を公教育があまりにもたくさん無視している、 という事実を無視したら、学校のいじめなんて無くなるはずがないと思う。

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労働基準法って違憲じゃないの?

労働基準法は憲法25条に定められた生存権を根拠としているという説明がなされることがしばしばある。たしかに動労基準法の第一条には「労働条件は、労働者が人間らしい生活ができるものでなければならない」旨を規定されているから、うっかり納得してしまいそうになる。

でも、素直に納得する前にちょっと立ち止まって考えてほしい。

国家権力を制約するはずの憲法が、なぜか国民同士の雇用契約を国家権力が制約する根拠とされていて、国家権力による取り締まりまでしていて、そのさじ加減を国会議員が相談して決めるというのだから、不思議ではないだろうか?

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フリーランスに産休を与えるというアイディアの恐しさ

フリーランスに産休を与えるというアイディアがまことしやかに語られるようになってきている。

フリーランスにとって休業のコストはまったくそれぞれ違う。 人によっては単に収入がなくなるだけだが、人によっては一日休めば百万円かかる話になる。それを完全にカバーする公平なセーフティネットなど、原理的にあり得ないし、どこまで保護するべきかを線引きすることの妥当性もない。

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自由権と社会権と人権

顧客は相手の仕事に納得して対価として払っている。

本人が望んで誰かを助けようとするならともかく、第三者が横から取り分をよこせという権利はそもそもないはずである。この関係をごまかしてしまうと、助け合いではなく奪い合いになってしまう。

本来、人権とは他者から自由を奪われない権利のことであった(消極的自由, 自由権)。 そもそもないはずの第三者が横から取り分をよこせという権利を、政治が作ってしまった。それが、社会権というものである。つまり、政府が税金を使って(他人から強制的に経済的自由を奪って)誰かに強制的に分配することが人権を政府が守ることであるという考え方のことだ。

たとえ民主主義に基づく決定といえども人々が幸福を追求する自由を邪魔してはならない。そういう考え方に基づいて、憲法が政府を縛ったはずである。ところがいつの間にか、憲法を口実に「人権」を守るために人の自由を縛れという形に、さかさまに読み替えられてしまったわけだ。

他者の自由を侵害することによってしか成り立たないものへと人権の概念を拡張すれば、権力は肥大し、人権は闘技場の中に入る権利を意味することになる。

もともとの人権の概念も、もともとの憲法の意義も、何もかも破壊してしまったとしたら、民主主義を掲げる国家に何が起こるだろうか?

そんな実験が進行中だ。

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法定結婚制度の意義

選択制夫婦別姓や同性婚が議論になるといつも、「他人の自由度を増やすだけで嫌なら自分が選択しなければよいだけなのだから反対する理由なんかないはず」という人がいる。

それをいうなら……と言えば、いくらでも結婚は拡張できる。 続きを読む 法定結婚制度の意義

国の科学研究予算って本当に必要ですか?

国立大学が国立行政法人化して20年近い期間が経とうとしている。

大学の中にいる人はしばしば訴える、『基礎研究が大切である。』これは、至極もっともな話である。科学に限らず、あらゆる学問の歴史を振り返れば、基礎研究をおろそかにして長期的な発達があったとも思えない。

頭脳が集積する大学という教育研究機関で行うべき研究は、大学でなくてもできる近視眼的な仕事ではないはずだ。

研究者はいう、いわゆる「競争的資金」ではなく、裁量で使える予算配分がもっと欲しいと。 続きを読む 国の科学研究予算って本当に必要ですか?