なんでもお役所にやらせること反対するべき理由

お役所にやらせることはとても割高です。

学校の先生にしろ、市役所の窓口担当者にしろ、公務員のサービスはあまりに割高です。というのも、そもそもターゲットを絞っていないからです。

「全ての人が納得するようなサービス」なんてものを目指せば割高になるのは当然です。割安にするためには、ターゲットを絞ってそこに特化したサービスにしなければなりません。

そうすることが許されないのは、税金によるサービスだからです。行政は、少なくとも民主主義の手続きに沿って、多数が納得するようにサービスを実施しなければなりません。したがって、行政サービスは常に費用対効果が必然的に悪くなっています。

私たちの生活を豊かにするためには、この非効率はあまりにも重荷です。現在の日本人は、収入の4割程度を徴税されています。一年のうちのほぼ半分を、公務員を養うために働いていると言っても過言ではありません。

それだけではありません、私たちの仕事には、民間企業でさえ、役所の制度のせいで発生している事務仕事が山のようにあるのです。

世界中の商品やサービスがインターネットで簡単に見つけられて簡単に購入できる現代、行政のコストが小さな国の人たちは安く効率よく製品を作ることができ、私たちがいくら商品を作っても、それと同等の値段で売らないと売ることができません。

こうして私たちは、働いても働いても収入が増えない状態を経験します。

 

 

取り返しのつかない失敗

技術の発達は生産性を向上させてきました。
たしかに生産性は向上し、効率をよくなりました。

PCやネットにスマホがあるおかげで10も100倍も楽になりました。

実際、製品開発も生産も事務作業も、はるかに少ない労力で多くの成果が得られます。一カ月もあればちょっとした製品設計が終わり、翌月には生産にはいることができます。そこそこの初期費用でモノを作り始め、すぐにネットで売ることもできます。10年前なら年単位の時間が必要だったことです。

浮いた分を上手に再投資することができた人は、安く沢山生産できるようになりました。浮いた分を浪費してしまった人たちもいます。そういう人たちは、製品を売りたければ同じように安く沢山作れるようにならなければ売れません。

労働法に守られた正社員のおっさんを養うために若者の労働力が搾取され続けました。そうして奪われた労働力は、どこへ行ったのでしょうか?

先行世代に食いつぶされた社会保障費が、後の世代に押し付けられ、若者の稼ぎがピンハネされています。老人を養うために使われるばかり。

あるときにはエコだエコだと騒ぎ、あるときには景気対策だといって、一過性のバブルを作っては浪費してしまいました。

国の債務はずっと右肩上がりでした。今では、企業も、個人も、税と社会保険料の負担に圧迫されています。

先行世代が作った制度のために、税金や社会保険料を沢山とられ、規制や制度に伴う雑務がどんどん増えてしまったから、結果的に仕事をいっぱいしないととべることができないのです。

昔は余裕がありました、でも、借金を作って、浪費したのです。浪費してしまったものは帰ってきません。前の世代が取り返しのつかない失敗をしたという事実があるばかりです。

派遣会社の中抜き

よく言われることがあります、「派遣会社の中抜きは大きすぎる」

たしかに、時給1500円の人を紹介してもらうなら、派遣してもらう会社としては2000円以上負担しているのは珍しくもなんともありません。

でも、それっておかしなことでしょうか?もし、派遣会社がそんなに儲かるなら、自分が派遣会社になって、自分を派遣しちゃえばよさそうです。あるいは、職探しをしている人たちがグループを作って自分たちを派遣するビジネスをしてもよさそうです。 続きを読む 派遣会社の中抜き

既得権の中の人が、既得権が足りなくて辛いと泣き叫ぶ

多くの会社が、横並びで国の政策に乗っかって、補助金を当てにして横並びで似たような事業をやって、横並びで採算が悪化していく。

多くの人が、横並びの国の教育を受けて、横並びの役に立たない人材となって、余っている。

国が政策として何かをすることで、同じ領域に多くの人や企業が群がるから、似たような会社が激増して、似たような人材が量産される。

狭い領域で競争して、どんどん価格が下がっていく。そこで大騒ぎするとしても、時すでに遅し、もはや助けてもらえない。

値段をつけようったって、それしかできない人がいっぱいるのだからどうしようもない。

既得権の中の人が、既得権が足りなくて辛いと泣き叫ぶ。

このできごと、何と名付けたらよいのだろう?

徴税と奴隷制

無賃強制労働を許せないという人が、徴税を容認するというのはおかしい。このことに是非気づいていただきたいと思います。

ある人は言います、「政府は〇〇に税金を使うべきだ」「政府が〇〇をタダで提供するべきだ」

でもちょっと待ってください、そのお金は誰が払うのでしょうか?

続きを読む 徴税と奴隷制

税金と国債と戦争

日本の経済は縮小し、財政は悪化の一途です。技術立国などと言われた時代も過去の話となり、国際競争の中での立ち位置は後退していくばかりです。

かつての日本は農業国だったかもしれません、しかし今では、農業も補助金に頼って米を作る農業が残っているばかり。今の日本ほど非効率な農業を温存し続けた国では農業国が選択肢になるというのも楽観的すぎです。

食糧を輸入する金を稼げなくなったら、飢えるか暴力かを選ぶ話になってしまいます。

既に日本では、生活ができないから政府の強制力で他人から財産を奪って何とかしろ、という声が珍しくもなんともありません。暴力による財産収奪を肯定する人だらけ、、、それをエスカレートさせれば、そこには戦争があります。

  • 徴税による他者からの収奪による解決を求めること
  • 国債による子孫からの収奪によって解決を求めること
  • 戦争による国外からの収奪によって解決を求めること

これらは一本の線の上にあります。

政府からの自由を求めるならともかく、政府による解決を求めるべきではありません。後者を選ぶなら、その先には戦争があります。

これは、日本国憲法の精神そのものだと思うのだけど、そう読まない人が沢山います。恐ろしいことです。

「表現の自由」と「財産の自由」の関係

いうまでもなく、公権力でもって自由を制限してはならない。けれども、自由な判断の結果については本人の責任である。ここでいう責任とは、もちろん政府によって処罰されるべきであるという話ではない。

私の表現が気に入らない誰かが私と会話することを拒否するとしても仕方ない。私との取引を拒否するとしても仕方ない。他者の身体や財産の自由を侵害する権利は私にはない。 「一定の」ではなく「明確に」責任を伴うと言えると思う。責任を説明するのに、法律は必要ない。

財産権が明確に尊重されている社会では、自由だからと言って乱暴なことをしたら生きていくことが難しい。多くの人に取引を拒否されれば、自給自足するしかなくなるからだ。

逆に、財産の自由が失われると、自由というのはまったく乱暴なものになる。嫌な表現を耳にしても、税を介してその人の生活を保障しなければならない、それでは表現を拒否できない。このような前提では、もちろん乱暴な表現がまかり通るとしても仕方ない。

徴税や公営社会保障を肯定し、財産の自由を否定する人は、表現の自由を否定せずにはいられなくなる。

あらゆる自由の基礎として、財産権は極めて大切である。ヘイトスピーチが嫌なら、政府による自由の侵害、とくに財産権の侵害は、徹底的に否定したい。

24時間営業のコンビニなんていらん

トラック運賃は上がったし、最低賃金も上がった、 コンビニオーナーはお仕舞い。

24時間営業の店なんていらん、流通・小売のコストが上昇したら、大手ネット通販でまとめ買いすることになる、でいいんじゃないの?

結局、最低賃金増やせというお話は、消費者の利便性を削ぎ、低賃金労働者から職業を奪い、大手企業に商売を独占させるための取り組みだったという決着を見る。

最低賃金増やせ、
最低賃金法は、人を雇うな、自分でやれ、という法律なのである。コンビニの経営者はアルバイトを雇わず、自力でなんとかするしかなくなった。飲食店の経営者や町工場の経営者も同じだ。

雇用は縮小する、
消えたコンビニで働いていた人たちは労働市場に押し出され、労働者の競争率を押し上げる。皮肉なことに、労働者は時間当たりより多くの成果を求められるようになるだろう。

 

 

国の税収は必要か?

国の税収は必要なものである。
これ、ちょっと大きな勘違いなんじゃないだろうか?

私たちに必要なのは「国の税収」ではない。ちゃんと生活できることであって、生活に必要なモノやサービスが手に入ることである。

たしかに私たちはサービスのうちのいくつかを国から手に入れる。それらのサービスは行政サービスとか公的サービスとか呼ばれる。実際のところは政府という組織から買わされているに過ぎない、費用は税として負担している。

公営サービスは、政府に売ってもらわなきゃ手に入らないものなんじゃないかと勘違いされがちだ。けれども、それもちょっと違う。実際には政府が安売りしていたり、法律で参入を規制しているから、他の業者が参入しないというだけだ。

他の業者という表現を敢えて使ってみた。そう、政府は、押し売りすることが合法化されていることで一部の業務を独占している業者に過ぎない。政府という押し売り業者の収入が税収なのである。

そもそも私たちは、財布や銀行口座にあったはずのお金で、生活に必要なモノやサービスは買うことができたはずだ。その前に、政府にピンハネされているのである。そして、国家権力が選んだサービスを強制的に買わされているのだ。

私たちは税収が必要なのではない、ちゃんと生活できることが必要なのである。もっと言うと、自由に生きたいのである。そのために必要なのは、税収ではない。私たちの財布の中のお金だ。