終戦直後に作られた国家事業としての巨大売春所,特殊慰安施設協会(RAA)

1945年、敗戦が決定的になった日本政府はポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が終結すると直ちに、特殊慰安施設協会と称する事業を国家主導で開始した。この事業は、ポツダム宣言受諾直後から連合軍が上陸するまでのわずかな期間から急速に展開した。

全盛期には日本人女性7万人が売られた。この出来事は、終戦のどさくさで一部のヤクザが便乗したという程度のおだやかな話ではない。

国家の中枢にあった官民にわたる大規模な構造が、独占していた権力を利用して、国民から奪える限りのものを奪い、それを足掛かりに自らの財産や権力を温存し、さらに戦後日本に強い影響を残すことになったという話なのである。

国家権力とその取り巻きは、敗戦に至ってもなお国民を利用して経済的背景と強力な連携を確保し続けた。時代を下って現代に至るまで国家の中心に居座り続け、膨張しているその権力は、終戦のその瞬間であっても横暴だったのである。

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政府がヤクザを動員した歴史【アイク歓迎実行委員会】

日米安保体制の構築過程は暴力団や右翼団体と切って切り離せない。政府は、日米安保体制の構築の過程では、反対運動を「警備」するための警察官の数の不足を補うために、右翼団体やヤクザを動員した。

1960年、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪日前の日米安全保障条約の批准を予定していた。国民の反対の声は強く、連日10万人規模のデモが行なわれる状況にあった。自民党安全保障委員会は、右翼団体や暴力団の有力者と結びつき、テキ屋、旧軍人、消防団関係、宗教団体、右翼団体、暴力団などを動員し、左翼の集会に殴り込みをかけさせた。

実は、街宣右翼、広域暴力団の大規模化はこの頃から始まった。 続きを読む 政府がヤクザを動員した歴史【アイク歓迎実行委員会】

国家の起こしたテロ事件『菅生事件』と破防法の成立

日本には警察が組織的にテロ事件を行った歴史がある。菅生事件も、乱暴な不正操作の一つとして挙げられる。

共産党員が容疑者とされた菅生事件という駐在所爆破事件がおきたのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年のことだった。この事件は当初、共産党員による犯行とされた。この事件は、一か月後の破壊活動防止法成立を後押しすることになったのみならず、講和と同時に結んだ日米安保条約(内乱鎮圧条項を含んでいた)を正当化する口実として用いられた。

「主権回復」がさかんに宣伝された講和条約だったが、当初から権力固定のために政府による不正な操作が用いられていた。警察・政府による自演テロ事件は、政治的な対立勢力を削ぐために利用された。

犯人を擁する政党として名指しされた共産党は、それまで35議席あった共産党は直後の選挙では全議席を失った。選挙結果に大きなインパクト与えた後になって、法廷では被疑者の冤罪が立証され、さらに、警察当局によるでっちあげが立証された。

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トンキン湾事件、攻撃されないなら、攻撃を捏造すればいい

攻撃されなくても攻撃を捏造して反撃を正当化する、こうした手段は珍しいものではなく、歴史的に繰り返されてきた。

1964年、米国政府がベトナム戦争に介入する口実として、北ベトナムが一方的に魚雷攻撃したとでっちあげたトンキン湾事件もその一つだ。

この出来事は、日本とその隣国である韓国にとっても無関係ではなかった。当時、日本政府や韓国政府が体制を維持するためには、ベトナム戦争が起こることが必要だった。

同時期に結ばれた日韓基本協定は、東アジアの戦争経済を駆動するために機能した。戦争特需によって延長された高度経済成長が、その後の日本の経済構造を基礎づけ、韓国の朝鮮戦争後の復興を可能にした。

米国政府と米国に協力・依存する政府にとって、体制維持のために戦争経済が必要だった。トンキン湾事件は、いわば「国益」だったのである。

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