企業家の役割を制限しない

人は社会の中で自分に何ができるのかを発見して、カネを稼ぐ。それが資本主義だ。

では、「何もできることのなさそうな人」はどうやって稼げばよいのだろう?ここで登場するのが企業家だ。企業家は、市場でのニーズを発見すると出資を募り、事業を作る、と同時に、市場で余剰になっている人間、安値で放置されている人間、を見つけて何か新しいことができないか考えるのである。

企業家は、自分にできる仕事を見つけられない人に代わって、その人にできる仕事を発見してくれる。もちろん、自分で仕事を見つけられない人を助けているのだから、企業家は相当な取り分を主張することができる。

雇われた人の報酬はささやかかなものになるかもしれないが、「何もできることのなさそうな人」が役に立ったという実績と信用を得ることができるのである。そのおかげで、自分にできることがあるというシグナルを市場に送れるように変わっていく。

企業家の取り分を法律が制限してしまうと「何もできることのなさそうな人」を発見しようとする動機は薄れ、彼または彼女が市場から発見される見込みはどんどん消えてしまう。人は、得られる選択肢の中からどうにか生きなければならないから、選択肢が少なくなればその中でもっともマシな選択肢を選ぶしかない。取引の機会を見つけることが難しくなるほど、弱者は取引相手が横柄な振る舞いをしたり強い要求をしてきても、断ることができなくなってしまう。

弱者にとって必要なのはより多くの企業家であって、企業家を制限することではない。最低賃金法や雇用規制によって企業家の取り分を規制してしまったり、企業家の成果に課税してしまうことは、企業家の役割や成果を否定することになる。規制された社会は、自由な社会と比べて、次第に弱者にとって厳しい環境になってしまうはずだ。

政府が作るフリーライドの膨張

トイレを使用するためだけにコンビニを利用する者が存在すると、その「フリーライド」が問題であるという人がいる。

もちろんこの発想は誤りで、コンビニの所有者には設置するかどうか判断する自由があるので何ら問題はない。トイレを維持するコストを自らの売る商品に転嫁してもそうしたほうが儲けが増えると思うから無償提供しているに過ぎない。

コンビニは私有財産権の範囲で自発的にトイレをタダで提供しているに過ぎず、トイレの提供は単に営業の一部である。逆に、損すると思うなら使用を禁止するのは所有者の自由であるし、利用者一人ひとりから料金を取るのも所有者の自由だ。結果的に損するか得するかは、所有者自身の責任なのであって、第三者が気に掛けることではない。

せっかくなので、問題のあるフリーライドについても考えてみよう。たとえば、政府がコンビニ経営者に無料トイレ提供を義務づけたとする。政府に設置を強制されたトイレを誰かがタダで使ったら、ここに生じる「フリーライド」は、先に述べたようなフリーライドとは全く意味が変わってくる。文字通り、コンビニの所有者がトイレの掃除を強制されている奴隷になってしまうのである。

問題のないものを問題だという人たちは、いったい何を主張したかったのだろう。実は、公衆トイレを税金で作れという話に展開しようとしたのである。

そこで、政府が税金を使って公衆トイレを作る場合を考えよう。ここでもコンビニの所有者にトイレの設置を義務付ける場合と同じ問題が生じる。公衆トイレを使いたい人のために、公衆トイレを使わない生活をしている人にまで負担させて公衆トイレを作ってしまうと、そこに不当な利権と搾取が生じるのである。

つまり、問題のあるものを作れと主張するために、問題のないものを問題だと言っていたことになる。このような政治的主張の危険性は、まずその第一段階で強制力によって労働させられる人を作り出していることにある。

さらに、話をもう一歩進めよう。政府の強制力によるフリーライドを一旦容認すると、民主主義によってそれを解決することが不可能になるということを指摘したい。

公衆トイレを作ることによって生じた搾取構造を解消するためには、政府が公衆トイレを廃止すればよい。これは論理的に明らかなのだが、現実の民主主義政府はさらに別の搾取構造を作ることで問題を拡大しながら先送りできてしまう。

政府は小さな搾取を作ることによって公衆トイレを使わない人の票を失うとしても、例えば、公営ゲートボール場を作ることで、公営ゲートボール場の利用者の票を獲得できるかもしれないからだ。公衆トイレを絶対に使いたくないと考える人よりも、ゲートボール場の潜在的な利用者の方が多ければ、後者が勝ってしまう。政府は、少しだけ大きな搾取を作り出せばよいのである。

民主主義は公衆トイレの廃止よりもゲートボール場を追加で作る方を選択してしまうから、もはや公衆トイレは廃止されない、さらに、公営ゲートボール場まで作られてしまう。次に公営ゲートボール場の不公平に気づく人もやがて出てくるとしても、政府は体育館を作ることができてしまう。その次に作られるのは博物館だろうか??? かくして、政府のすべての事業は利権となってどんどん巨大化していってしまう。

すべての利権が先行する利権を肯定しながらさらに票を獲得するために調整されたものでなのであるという事実に注意すると、膨らんだ政府の事業を民主主義によって少しずつ廃止縮小することはまったく不可能だということにも気づけるはずだ。

一部の政治利権を廃止してそのままにしようとすると、もともとある不公平が顕在化してしまう。その不公平をごまかしてさらに票を加えるために利権を組み立てているのだから、それを否定してしまう政党が選挙で勝てるはずがない。

だから、民主主義の選挙で議席を得るのは、すべての利権を廃止しようとする政党ではなく、すべての利権を曖昧に肯定しながら、さらに余計な利権を生み出す政党が勝てる政党である。一時的にいずれかの利権を廃止するとしても、政党はすぐにそれに代わる規模の利権を生み出して穴埋めせずにはいられなくなるのだ。

雇用がオワコン

かつて日本のサラリーマンの給与は右肩上がりが普通だった。しかし、いまではそんなことが当たり前ではなくなっている。そして、その傾向はこれからもっと大きくなっていくはずだ。

日本の雇用規制は次第に強化されてきた。最低賃金は上昇し、労働法はより厳しく運用されるようになった。契約社員の5年ルールも追加され、残業規制も強化された。規制が増えるにしたがって、次第に雇用契約を結ぶメリットが低下してきている。

雇用契約を結ぶこと自体のコストが上昇し、それが賃金水準や期待される収益・株価に織り込まれるにしたがって、そんな水準では雇われるメリットがないと労働者が感じるようになってきた。

他人の労働に投資して利益を得る、あるいは、労働者の成長に投資して利益を回収するというモデルが規制によって採算を取れないものに変化したので、投資家の好む投資対象も人を沢山雇う事業から、人を直接雇わずににすむ事業に変わってきているのである。

高度な技能を有する一部のエリートを囲い込むための最小限の雇用契約は残るかもしれないが、下辺側で人材を雇用することはますます非合理になっていく。

今後は、人手によって行われていた作業は、次第にロボットやネットサービスを介して行われるようになるだろうし、それを制御するソフトウェアやそれが提供するコンテンツは、雇用契約を介さずに製作者に直接インセンティブを支払う方向に調整されるだろう。

雇用契約が消えていくにしたがって、当人が自分でビジネスを構築していくことでしか生きるしかなくなる、あるいはそれができない人は単にじり貧になるしかない。

なんでもお役所にやらせること反対するべき理由

お役所にやらせることはとても割高です。

学校の先生にしろ、市役所の窓口担当者にしろ、公務員のサービスはあまりに割高です。というのも、そもそもターゲットを絞っていないからです。

「全ての人が納得するようなサービス」なんてものを目指せば割高になるのは当然です。割安にするためには、ターゲットを絞ってそこに特化したサービスにしなければなりません。

そうすることが許されないのは、税金によるサービスだからです。行政は、少なくとも民主主義の手続きに沿って、多数が納得するようにサービスを実施しなければなりません。したがって、行政サービスは常に費用対効果が必然的に悪くなっています。

私たちの生活を豊かにするためには、この非効率はあまりにも重荷です。現在の日本人は、収入の4割程度を徴税されています。一年のうちのほぼ半分を、公務員を養うために働いていると言っても過言ではありません。

それだけではありません、私たちの仕事には、民間企業でさえ、役所の制度のせいで発生している事務仕事が山のようにあるのです。

世界中の商品やサービスがインターネットで簡単に見つけられて簡単に購入できる現代、行政のコストが小さな国の人たちは安く効率よく製品を作ることができ、私たちがいくら商品を作っても、それと同等の値段で売らないと売ることができません。

こうして私たちは、働いても働いても収入が増えない状態を経験します。

 

 

取り返しのつかない失敗

技術の発達は生産性を向上させてきました。
たしかに生産性は向上し、効率をよくなりました。

PCやネットにスマホがあるおかげで10も100倍も楽になりました。

実際、製品開発も生産も事務作業も、はるかに少ない労力で多くの成果が得られます。一カ月もあればちょっとした製品設計が終わり、翌月には生産にはいることができます。そこそこの初期費用でモノを作り始め、すぐにネットで売ることもできます。10年前なら年単位の時間が必要だったことです。

浮いた分を上手に再投資することができた人は、安く沢山生産できるようになりました。浮いた分を浪費してしまった人たちもいます。そういう人たちは、製品を売りたければ同じように安く沢山作れるようにならなければ売れません。

労働法に守られた正社員のおっさんを養うために若者の労働力が搾取され続けました。そうして奪われた労働力は、どこへ行ったのでしょうか?

先行世代に食いつぶされた社会保障費が、後の世代に押し付けられ、若者の稼ぎがピンハネされています。老人を養うために使われるばかり。

あるときにはエコだエコだと騒ぎ、あるときには景気対策だといって、一過性のバブルを作っては浪費してしまいました。

国の債務はずっと右肩上がりでした。今では、企業も、個人も、税と社会保険料の負担に圧迫されています。

先行世代が作った制度のために、税金や社会保険料を沢山とられ、規制や制度に伴う雑務がどんどん増えてしまったから、結果的に仕事をいっぱいしないととべることができないのです。

昔は余裕がありました、でも、借金を作って、浪費したのです。浪費してしまったものは帰ってきません。前の世代が取り返しのつかない失敗をしたという事実があるばかりです。

派遣会社の中抜き

よく言われることがあります、「派遣会社の中抜きは大きすぎる」

たしかに、時給1500円の人を紹介してもらうなら、派遣してもらう会社としては2000円以上負担しているのは珍しくもなんともありません。

でも、それっておかしなことでしょうか?もし、派遣会社がそんなに儲かるなら、自分が派遣会社になって、自分を派遣しちゃえばよさそうです。あるいは、職探しをしている人たちがグループを作って自分たちを派遣するビジネスをしてもよさそうです。 続きを読む 派遣会社の中抜き

既得権の中の人が、既得権が足りなくて辛いと泣き叫ぶ

多くの会社が、横並びで国の政策に乗っかって、補助金を当てにして横並びで似たような事業をやって、横並びで採算が悪化していく。

多くの人が、横並びの国の教育を受けて、横並びの役に立たない人材となって、余っている。

国が政策として何かをすることで、同じ領域に多くの人や企業が群がるから、似たような会社が激増して、似たような人材が量産される。

狭い領域で競争して、どんどん価格が下がっていく。そこで大騒ぎするとしても、時すでに遅し、もはや助けてもらえない。

値段をつけようったって、それしかできない人がいっぱいるのだからどうしようもない。

既得権の中の人が、既得権が足りなくて辛いと泣き叫ぶ。

このできごと、何と名付けたらよいのだろう?

徴税と奴隷制

無賃強制労働を許せないという人が、徴税を容認するというのはおかしい。このことに是非気づいていただきたいと思います。

ある人は言います、「政府は〇〇に税金を使うべきだ」「政府が〇〇をタダで提供するべきだ」

でもちょっと待ってください、そのお金は誰が払うのでしょうか?

続きを読む 徴税と奴隷制

税金と国債と戦争

日本の経済は縮小し、財政は悪化の一途です。技術立国などと言われた時代も過去の話となり、国際競争の中での立ち位置は後退していくばかりです。

かつての日本は農業国だったかもしれません、しかし今では、農業も補助金に頼って米を作る農業が残っているばかり。今の日本ほど非効率な農業を温存し続けた国では農業国が選択肢になるというのも楽観的すぎです。

食糧を輸入する金を稼げなくなったら、飢えるか暴力かを選ぶ話になってしまいます。

既に日本では、生活ができないから政府の強制力で他人から財産を奪って何とかしろ、という声が珍しくもなんともありません。暴力による財産収奪を肯定する人だらけ、、、それをエスカレートさせれば、そこには戦争があります。

  • 徴税による他者からの収奪による解決を求めること
  • 国債による子孫からの収奪によって解決を求めること
  • 戦争による国外からの収奪によって解決を求めること

これらは一本の線の上にあります。

政府からの自由を求めるならともかく、政府による解決を求めるべきではありません。後者を選ぶなら、その先には戦争があります。

これは、日本国憲法の精神そのものだと思うのだけど、そう読まない人が沢山います。恐ろしいことです。