果てしなく続く議会の不毛な議論

自分の時間、自分の金でやればよいことを、税金でやろうとするから無理になる。そもそも、他人の金でやるな、他人の自由を縛ってやるなという話なのだ。当然、分かるように説明しろ、果てしなく説明しろ、という話しが延々と続くことになる。本当に必要なら、必要だと感じる人が作ろうとするだろう。

そもそも、お前の金を奪って何かを買ってやると言われたら、断るのに理由はいらないはずだ。オリンピックにしろ、魚市場にしろ、教育にしろ、人助けにしろ、他人に負担を強制するなら、果てしなく、無限に、議論に応じるべきだ。それはつまり、そもそも税金でやるべきでないということだよ。

税金とはそういうものだから我慢しなさい、議会とはそういうものだから我慢しなさい、平等だから我慢しなさい、みんなで我慢しなさい、、、それは間違った前提に立っている。同意なしにセックスを強要してはいけないし、お前のカネで何かを買ってやるといって同意なしに他人の財産を奪ってはいけない。

たとえ、多数決によってそれが認められても、たとえ憲法がそれを許していても、人を殺してはいけないし、人の財産を奪ってはいけないし、人の自由を奪ってはいけない。

ガラパゴス化じゃなくて家畜化では?

政府によって自由競争が阻害されると、役所の条件に適応し、役所から仕事をもらうための競争、あるいは、役所の示した条件に適合するように事業計画を立てる競争が始まる。役所から仕事を得るための競争は、自由競争よりもはるかに熾烈な縁故資本主義の競争である。

役所に適合するための競争、それによって起こる歪んだ進化こそ、ガラパゴス化と揶揄されたものの正体だろう。でもそれは本当に、ガラパゴス化と呼ぶに値するモノだろうか? 続きを読む ガラパゴス化じゃなくて家畜化では?

人を選んではならないという信仰=反差別の誤り

人は皆、同質ではない。

理不尽な客は沢山いるし、街を歩けば乱暴な人にも出会う。ところが、人は皆同じであるという信仰がある。

自由に選ぶことができないという前提を作れば、人を選んではならないという社会の要求にこたえるために、自分が罪人になる覚悟をするか、理不尽を受け入れるか、言い訳を考えるかを選ばなければならなくなってしまう。

人を選んではならないという信仰は、沢山の現実の軋轢を生む。人々は必死に、自分がいかに正しいのかをまくしたてるようになる。あるいは開き直るようになる。自分が相手を断ったのは差別ではないのだと「社会」が理解できるような説明を用意しようとする。自分の内心ではなく、社会のことを考え始める。

多くの人が、そこに不満を感じ、恐怖を感じ、不信感を抱く。すると人々は、人は同じでなければならないと考え始める。同じになるために妥協を強いられるのは当然だ、自由を奪われるのは当然だ、と考え始める。

間違った信仰が、間違った結論を導いてしまう。

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公的社会保障が健康ファシズムを作り出す理由

政府の社会保障とファシズムには直接の強い結びつきがある。

政府による生活への介入がどのように、なぜ起きるのかを理解するために、公的社会保障と健康ファシズムを取り上げてみよう。

公営社会保障は、強制された疑似的な助け合いである。(もちろん、自発的でないのだから、助け合いというよりは奪い合いである)

公営社会保障の下では、もしも誰かが不健康を放置すればそのコストを他者が強制的に負担させられることになる。そのため、「助け合い」の強制はその存在自体が国民に健康である義務を国民に要求する。

公営社会保障は、喫煙の禁止を要求するし、飲酒を禁止することを要求するし、もっとエスカレートすると政府が定めた食事を要求するようになるかもしれない。つまり、自由を奪うことが運命づけられている。

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最低賃金規制と雇用保護の両立という矛盾

最低賃金を上げろと叫んでいる政治団体は、一方で中小企業を補助しろと言っている。これは、本質的に危険なことだ。

最低賃金を上げろ、雇用は保護しろというのは、絶対に両立できないものである。最低賃金を上げればその賃金で回せない事業者は雇用することができなくなる。無理に事業を維持するよりも、事業を畳むことを選択するだろう。

彼らは一方で、賃金を増やせないのは経営者の無能だと言いながら、中小企業を税金で補助しろと言っている。これは問題を複雑にする。

高い賃金で人を雇用できてそれで事業を回している事業者に負担させて、最低賃金を増やして回らなくなる事業者を税金で補助したら、彼らの言う無能な経営者を補助するためにまともな事業者に負担させることになる。

自分でまともな雇用主を選んだ人や、まともな経営をしている人が、まともでない経営者のために負担を強いられる。最低賃金規制と雇用保護の両立は、公平とは言えないのである。

最低賃金制度という経済的徴兵制

飲食店が商品の最低価格を政府に1500円に決めてもらったら、ラーメン屋は幸せになれるだろうか?ラーメン屋にやってくる客は少なくなり、店は立ち行かなくなるかもしれない。ラーメン屋からステーキ屋に業態を変えれば済むかもしれない、だがそれには大変なコストが必要だ。捻じれた市場では高級料理店の競争率も上がってしまい、決して飲食業は楽にならない。分業のコストばかりが高くなり、消費者もまた晩御飯を自炊するしかなくなってしまうだろう。

最低賃金制度はこれとよく似た制度だ。最低賃金を1500円に増やせば、1500円以上で求人をだす会社に、多くの労働者が集まることになる。労働者は今までよりも採用されることが難しくなって、事業者の要求は高くなる。それで、労働者は幸せになるだろうか?選択の自由を失うことで、一層過酷な競争を強いられるだろう。

多くの低賃金労働者にとって、今より高い賃金水準で雇われる方法がないわけではない。危険な労働や、人のやりたがらない仕事はならば、見つけられることができる。ある人は選択するだろうし、別の人は、体力的にきつかったり、精神的につらかったりするから、選択しないだろう。嫌なら選択しないことができる、これが職業選択の自由である。

体を売りたければ体を売ればよい。だが、最低賃金制度はそれ以外の選択肢を奪う。体を売るしかないから体を売るという状況を政府が作るのが最低賃金制度の機能だ。もちろん、職業選択の自由を奪うことに他ならないから、憲法22条にも反している。

最低賃金の押し上げを要求することで得をするのは、大企業の労組の幹部や、それを背景とする政党であって、本当の弱者ではないことに注意しよう。最低賃金法は、すでに雇われている人の地位を一時的に高くするかもしれないが、多くの人にとっては、失業する低賃金労働者を踏みつけて得ることができる特権はそれほど魅力的なものではない。雇用主からみて「代わりがいくらでも見つけられる」状態が生まれるからだ。当然のように無理な要求をする事業者は増えるだろう。そしてそれを拒否しようとも、職を失えば再就労は難しいという状況が作られる。

つまり、最低賃金法は、ブラック企業を無くす法律ではなく、ブラック企業を作り出す法律なのである。

政府に雇用を規制させる最低賃金法は、政府に都合のよい経済的徴兵制ともなりうる。兵士や原発事故の後始末の作業より安く雇うことを政府が禁止すれば、低賃金労働者にそれを強制することさえできるからだ。

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正しい税金の使い方

ある使途に税金を使うことが正しいと言える必要条件は、それぞれの納税者が徴税されない場合に手に入れるものより、税を介して強制的にそれに投じさせるほうが利益をもたらすことを証明できる場合である。

そのような証明が存在しないならば、それぞれの納税者から他の使途に使う自由を奪うことは正当化できない。もし、そのような証明が存在するならば、強制的に徴税せずとも人々は自発的にその事業に出資するだろう。ゆえに、正しい税金の使い方は、税金を使わないことである。

人々は、徴税されるべきでない。

 

税金という仕組みは、そもそも正当化できるものではないにも関わらず、納めることがさも当たり前だと信じられている。また納めさせることが正義であるとすら信じられている。だが、それは間違いだ。

あらゆる物事に政府が干渉してしまっている結果、税金がなければ回らないような社会が確かに目の前にある。だが、目の前にある社会というものも回ってはいない。せいぜい将来に負債を積みながら、目の前に喧噪を作り出しているに過ぎない。そこにあものは破綻に向かって突き進むだけで、決して回ってはいない。

第二労組と連合

残業規制が国会で議論されるようになっている。

100時間という数字を連合と経団連が議論し、政府がそれを受け入れるという構図がある。連合がだらしないとか、経団連がけしからんとか、政府が乱暴だとかいう人も少なくない。

だが、既成の労組から自立しない労働者こそ、だらしないのではないだろうか。

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無責任で危険な公共事業

安心でも安全でもなんでもよい。せめて、問題が起きたときに賠償するのが誰なのかくらい、最低限はっきりさせるべきだろう。公共事業や政府の関与した国策事業といった公営事業の事故や失敗をみるたびにそう思う。

責任を負うというのは頭を下げることや言い訳をいうことではない。最終的に問題が起きたときにその費用を弁済することである。誰かが経済的責任を負ってリスクを評価できるというなら、その人が責任を負って事業をすればよい。だが、そうでないなら始めるべきではないだろう。 続きを読む 無責任で危険な公共事業

労働環境の問題は権力によって解決されない

労働環境を改善する唯一の方法は、労働者が自発的に労働環境を選ぶことである。置かれている状況が望まない待遇なら、望む待遇の事業者に雇用されるように自分で選択すればよい。あるいは、同じ思いを共有できる仲間を募って、自分で創業してもよいかもしれない。職業選択の自由は、自ずと可能な限度まで労働環境を改善する。

売り手は高く売ろうとし、買い手は安く買おうとする市場において、労働者が辞めたくてもやめられない事情があるときに労働者の待遇が低下するとしても、まったく当然である(無理やりそれを停止しろというなら、人々から経済的自由を奪うしかない)。そこに職業選択の自由を奪うものがあるから辞めたくてもやめられないとすれば、問題は「何が職業選択の自由を奪っているのか?」である。

普通に考えれば、雇用主は労働者から直接搾取することはできない。労働者をロープで括りつけて労働を強制することはできない(それは明白な犯罪である)。だが現実には、雇用主とは別の何者かが労働者を見えないロープで縛り付けている。政府の強制力によって作られる規制や課税である。そこに見えにくい搾取が隠れている。

あらゆる雇用に関する規制は、職業選択の自由を制限することはあっても、職業選択の自由を増やすことにはならない。職業選択の自由を制限すると、労働者の待遇は悪化する。待遇が悪くても別の選択肢を選ぶことができなくなってしまうからだ。

労働者が権力に規制を求め、(職業選択の自由を政府が侵してはならないとする憲法をちゃっかり無視して)それを推し進めても、問題を肥大させながら右から左にしわを寄せ、都合よく利権を作り出すだけになる。そのたびに人々の生産した成果が権力によって搾取される事情が増え、労働者の経済的自由が政府によって搾取されることによって、労働者が過酷な環境から逃れる道を失うという結果を導く。

政府の権力自体が本質的に何も生産しない以上、人々が自発的に解決できないものはいかなる政府によっても解決されるはずがない。これは、まったく仕方のないことだろう。政府に自由を奪わせるたびに、人々が自発的に解決することが困難になっていくしかない。

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