ナチスの社会福祉政策

「福祉国家」という考え方は、ファシズムを必然的に導く。

国家による高い社会保障を要求する福祉国家の考え方は、政府が失敗する存在であるという点を無視しがちだ。政府は必ず失敗するが、その失敗の責任をとらずに納税者に転嫁してしまう。そのため、政府の失敗はやがて必ず膨張してしまう。膨張する政府を正当化するため、政府はどんどん自由を奪っていく結果となる。

福祉国家というコトバに惑わされて生殺与奪を政府に託してしまった人々は、それに反対していた人たちをも巻き込んで、膨張する政府を止める手段を持たないまま、深刻な自由の喪失を経験することになる。

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「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

『「愛されやすい人柄」というのは特殊スキルであり才能であり、それを持ってると色んな人が助けてくれるので生きていきやすい。だから、それを持ってない人でも公平に助けるのが公的扶助の役目だ。』

こういう主張をする人がいたけれども、これは深刻な誤りだ。

弱者は公的な救済に頼れという言い回しは、政治家や役人が大好きである。「多数決に認められるほど可哀想な人になって、政党の票田になるほど集団化して、権力の傘の下に入りなさい」という論理が隠れているからだ。 続きを読む 「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

国家を清算しなければならない理由

法律は常に正しく作られるとは限らない。

かつて国家が奴隷制を合法としていたことは、疑いようもなく罪である。人間の自由を国家が法律によって奪っていたからだ。

他人の財産の自由を奪う徴税を国家はまだ合法にしている。本当にそれでよいのか?疑った方が良い。 続きを読む 国家を清算しなければならない理由

マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

自由市場が少数弱者を無視するという主張は、政府のプロパガンダに過ぎなくて、市場に少数弱者を放置させるバイアスをかけているのは政府に他ならない。

「政府によって歪められた市場で少数弱者が無視される」のであって自由市場で少数弱者が無視されるというのは全くの錯誤だ。 続きを読む マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

表現の自由と政府の衝突

表現の自由とは、「政府あるいは民主主義が表現を規制しないこと」。ところが、「誰もが表現を存分に行うことが望ましという態度のこと」だと書いた人がいた。これはよくある勘違い、あるいはごまかしだ。なんでこのようなごまかしが生じるのか考えてみることにした。 続きを読む 表現の自由と政府の衝突

人気のある政治テーマと人気のない政治テーマ

日本では、多くの政治テーマは人気がない。だが、ときおり人気のある政治テーマが生じる。例えば、日米安保や、共謀罪といったテーマである。

一方、政治家の不正とか、特定の勢力の利権の取り合いというのは大して人気がない。例えば、学費の無料化とか、保育園の無料化とか、ナントカマイノリティの保護といったテーマである。

日本の有権者の半分は、そもそも支持政党を持たない。それどころか投票行動だって取らない。政党間の利権の取り合いには、うんざりしていて、話を聞くのも嫌なのだ。

けれども、根本的なところで政府が自分たちの自由を制限することについては不満を表明しようとするという話である。

政党は、自分たちの利権の取り合いばかりにうつつを抜かし、私たちの自由を制限することについては無頓着である。それどころか、積極的に制限しようとしさえする。だから嫌われるのだ。

政党がお前らを助けてやる、だから投票しろ。そんな政党は嫌われて当然である。私たちは自分たちで生きている。政治は単に邪魔しないことを表明しさえすればよい。そんな簡単なことができる政党が日本にはない。

政府認定マイノリティの問題

航空会社の乗客と障害を持った客のトラブルが報じられた。

本来なら、航空会社と客の間にどういう契約があって、債務不履行の有無に問題が限定されるべきだ。だが、そこから外に問題が広がった。その時点で、事情は大きく変わった。

航空会社は、事前連絡を企業側が求めているにも関わらず、そのことを利用者も知っていて意図的に無視した。その契約内容について、市場の枠を超えて「社会」が当事者の取引に干渉しようとした。

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真の民主主義は多数決にあらずというが、

真の民主主義は多数決にあらずという。だが、一人ひとりの意思を尊重するという立場なら、自由主義という言葉があるのだから、民主主義という言葉に執着しなくてもよいと思う。

自由主義を否定する立場から、自分に都合のよい「理想の権力」を正当化するために民主主義を信奉する人もいる。そういう人が民主制は多数決であるという以上の意味を民主制に与えるのは、論理的に無理なことだ。

政治家や役人や民主主義が建前の押し付け合いをすることだって、理想の押し付け合いである。その建前を壊したら、別のところでつじつまが合わなくなるような理想なのである。そもそも多様な人々が理想を共有できるなんて仮定が無理なのだから、つじつまが合わなくなるのは最初から当たり前だ。

「理想の社会」を共有するためのタテマエをどんどん補強してエスカレートさせれば、本当に理想を統一していかねければならない。それはつまり、人の考え方や生き方の多様性の否定に他ならない。

民主主義が自由を奪っていくことは、実は最初から予定されているわけだ。

http://shibari.wpblog.jp/archives/13822

日米安保条約の内乱条項と日米地位協定に奪われた抵抗権

抵抗権とは、そこに住む人々が不当に自由を奪う政府の権力行使に抵抗して体制を転覆する権利のことである。あるいは、革命権とも呼ばれる。自由を不当に奪う国家に対して抵抗する権利を失えば、自ずと国家は乱暴に振舞うようになっていくから、抵抗権は極めて大切な権利である。

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民主主義の限界

民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人が、民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人を、民主主義によって止めることはできない。

人の自由を政治的に奪い合うことをを正当化した人は、人の自由を奪う政府を止めることはできない。政府が人の自由を奪おうとすることは、民主主義の当然の帰結だからである。

少しでも政府が自由を奪えば、奪われた自由は歪みを残す。

「税金を使った助け合い」といって公営社会保障の税負担を強制すれば、政府はやがて全ての人が等しく健康に配慮して生きることを義務付けなければならなくなる。政府は規制を正当化する機会を得て肥大する。そして自由は大きく失われていく。

「教育機会を与えるのだ」といって教育費用の税負担を強制すれば、政府はすべての人が等しく教育の成果を社会のために還元することを義務付けなければならなくなる。政府は教育への強い介入を正当化する機会を得て肥大する。国の金で教育を受けることが誘導され、国のために尽くさなければ罰を受ける制度が作られる。そうして人々の生き方は自由を失う。

「人の稼ぎを守るのだ」といって雇用の自由を制限すれば、人々は職業経験を積む前に雇用されるだけの点数を稼ぐ競争に押し込められる。生き方を選択する機会を失い、決められた教育の中に没入する。人々は狭い競争を強いられ、自由を奪われる。

雇用のコストはずっと上昇し、製品価格は値上がりする。「事業者を守るのだ」といって自由な貿易を制限することが正当化される。肥大した政府は、国外で買えるよりはるかに高い値段で買うことを人々に強制する。

政府通貨はひたすら発行され、人々の現金資産の価値は急速に失われる。人々が現物資産を持とうとすれば破綻するから、政府は人々の取引を制限し始める。あらゆる取引を監視し、課税対象にすることで政府通貨を持つことを強制する。

人々は知っている、この仕組みが成り立っていないことを。人々が国外に出ていけば膨張した税負担を逃れることができる。本当に人々が出ていけば破綻する。だから政府は人の出入りを監視し、人々の自由をよりしっかりと制限する。

肥大した政府を支えるために収入の半分を奪われ、子孫への借金を正当化したとき、人々の自由の大部分は政府のために失われている。その時人々は政府を支えるためのみに生きることを強制される。

デモクラシーが政府を肥大させる口実を与え続けるということは、多いに反省するべきだと思う。 政府に求めるとしたら自由の邪魔をしないことであって、保護や統制ではない。それをいくら人権とか平等とか安全とか安心とか言い換えたってダメなんだよ。