公的保育の危険性

利用者を満足させることを目指す自由な市場競争は、本来なら素晴らしいものである。ところが、それが公的な力によって歪められると、役所の要求に適応する競争が代わりに始まる。そのせいで、現場からのフィードバックが期待できなくなってしまう。

市場競争の生じない場所では、政府の許認可の要件や補助金リストばかり見てその範囲でいかに儲けるか楽するかを考える施設経営者や人間が増える。一方、目の前の 顧客から信用を得るために丁寧に仕事をする事業者や職業人は淘汰されていく傾向が生じる。

だから、政府によって許認可が与えられ公的資金が注ぎ込まれる保育施設は、市場競争が抑制されるため危険なものになる。

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民主主義国家に憲法が必要な理由

「憲法は国家権力を縛るためのものだ、人々の自由を奪うためのものではない。」と頭で知っているつもりの人でさえ、いつの間にか論理をひっくり返して、権力を縛るための憲法を人々を縛るための憲法にすり替えてしまってはいないだろうか?

今回は、民主主義国家に憲法が必要な理由について考えてみよう

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政治にほっとかれる人たち

あれはブラックだ、これもブラックだ、といって声の大きい集団から税金ヨコセを成功させていく。

それよりもずっと低い生活水準の人が票にならないからという理由でほっとかれて、強制的な徴収と配分の外側に置かれる。誰かに自発的に救済されるささやかな希望は失われていく。悲しいことだ。

政治が支配的になった社会では、自発的な救済は難しくなる。目の前に可哀想な人がいたとしても自分の財産から助けることが難しい。目の前の人を助けるのではなく、みんなで大騒ぎするしかない。すでに政府に税金をとられてしまっているのだ。

民主主義の現実は多数決である。だから、声の大きい、票になりやすい集団から、税金ヨコセを成功させていく。

政府の保護の下で一律の給料をもらっている人たちが、それでは足りないと騒いで税金ヨコセを成功させる。

政府の保護によって新規参入から守られて商売している人たちが、過労で苦しいといって、税金ヨコセを成功させる。

政府のバックアップで行われるオリンピックのボランティアが、無償なんてけしからんといってなぜか税負担の強制を正当化しようとする。

でも税金ヨコセする前に、ちょっと待ってほしい。

私たちの視界にもっと声の小さな人たちがいるんじゃないか? 政治による分配という仕組みは、残酷だということを思い出してほしい。なんで人を助ける手段を税金だと思い込んでいるのだろう?

日本国憲法 第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

国が性的マイノリティを「支援」するべきか?

「LGBTは生産性が低い」という杉田水脈議員の表現が話題になっている。まったく彼女の発言は批判されるべき性質のものだ。誰かが社会に「利益」をもたらさないからという理由で、不公平に扱われるべきではない。

そう、彼女は法の下の平等という考え方を無視したのである。

もっとも、法の下の平等という考え方が、常日頃から無視されがちであるということはちゃんと確認しておいた方が良いと思う。

たとえば、「子どもを作ることが、社会全体の利益だ」といって子育て「支援」を肯定してしまう人は少なからずいる。そういう人が同じ口で国による性的マイノリティ「支援」を非難する人を責めるとしたら、滑稽というものだ。

政治による「支援」というコトバの使い方にも問題がある。もっぱら自発的になされるものだけを支援と呼ぶべきなのであって、国が強制的に一方の国民の財産を他方へと移転することを「支援」と表現するのは、間違いのもとだ。

政府自体は、それこそまったく生産的ではない。ただ誰かの財産を誰かに強制的に移転しているに過ぎない存在だ。

 

もちろん、政治家や役人は、「支援している」と気取りたいだろうが、彼らは、ただ納税者から吸い取って、別の方向にばら撒いているに過ぎない。それを「支援」と呼ぶのはそもそもズルい。税金というものが、そもそも誰かが負担したものであるという観点をわざと隠しているのだ。

・子育て支援のために、非子育て納税者に負担させるべきである。
・LGBT支援のために、非LGBT納税者に負担させるべきである。
・〇〇支援のために、非〇〇に負担させるべきである。

と表現したうえで、強制負担させられる者の存在を許すべきなのかを丁寧に議論するべきだろう。

「誰かの生き方の価値を国家権力が評価して、別の人から強制的に財産を奪って配る」ということがまかり通っている。法の下の平等を履き違えているのは、与党だけではなく、野党の政治家も同じではないだろうか?

税金によって生き方にバイアスをかけようとすることは、一般にやってはいけないことなのではないだろうか?

 

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経済的自由の喪失

政府が人々の経済的自由を制限し、国家権力が統制するようになっていくと、人々は自分の人生を自分で選んで幸福を追求することが出来なくなってしまう。

市場競争にさらされない政府のサービスは、必然的に画一的になり、品質も低下していく。日本でも、ほとんど全ての人にとって割安とは言えなくなり、だがそれにもかかわらず、税負担を強制されているサービスが無数にある。

政府は、利回りがマイナスの年金を押し付けたり、十分な保険をかけずに事故を起こす原子力発電所を押し付けたり、適合できなくても逃れることのできない教育を税金を使って強制的に押し付けたりする。自由な市場では選択されないような品質のものを、政府の強制力によって押し売りしているのである。そして、政府とは本質的にそういう性質のものなのである。

政府のサービスは額面だけは無償だったり格安だったりするけれども、結局は税金として負担するので実質的に割高である。人々はそれを使い続ける。自分が使わなくても、他人は使うのであるから、税負担は続く。だから、使わなければ損になってしまうのである。

いつしか政府の統制下で決められた製品やサービスしか選べなくなってしまい、政府が良いと言ったものしか選ぶことができなくなる。政府の範囲が拡大するとき、自由は失われる。そこにあるのは国家に人生を統制された社会である。

政府は人々から直接的に私有財産を引き離し、政府の裁量によって使途を決めてしまう仕組みをいくつももっている。たとえば税金や、社会保険料の徴収、政府の紙幣発行に伴うインフレ税、様々な形で人々の経済的自由を奪っていく。同時に、公営社会保障や公教育、公共事業といった、公金の支出によるモノやサービスに人々を依存させることで、経済的自由を奪っていく。

人々が代替の選択肢を選ぶことができなくなると、不合理を強制されてしまう。経済的自由が失われて国家によって統制された社会では、政府の失敗によって膨大な不合理が社会全体に放置される結果が導かれる。

人々が自分で選んで幸福を追求するための基礎となるのは、経済的自由である。経済的自由を失った人々は、職業選択の自由を失い、教育を選択する自由を失い、他者を助ける余裕を失う。もはや自由に選択して生きることができなくなれば、不満があっても逃れることができないから、奴隷と同じである。

経済的自由を喪失した人々は、与えられたものを受け入れなければならなくなってしまうから、必然的に権力に隷属させられるのである。

人々が政治に頼る限り、窮屈な状況に不満をどれだけ叫ぶとしても、解決する手段にはならない。それどころか、より一層窮屈な状況に自分たちを追い込むことになるだろう。

 

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公教育が包摂できない多様性

左利きに書き順を強いることを何十年もやめられない公教育に求めることができる「多様性」ってなんだろうか?

公教育が民主主義の多数決で選ばれる政府の下にある限り、せいぜい多数の大人が共感する範囲だけの多様性しか気にしない。

ぼんやりした大人が気づかないけれど子供でも分かるような差異を公教育があまりにもたくさん無視している、 という事実を無視したら、学校のいじめなんて無くなるはずがないと思う。

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国の科学研究予算って本当に必要ですか?

国立大学が国立行政法人化して20年近い期間が経とうとしている。

大学の中にいる人はしばしば訴える、『基礎研究が大切である。』これは、至極もっともな話である。科学に限らず、あらゆる学問の歴史を振り返れば、基礎研究をおろそかにして長期的な発達があったとも思えない。

頭脳が集積する大学という教育研究機関で行うべき研究は、大学でなくてもできる近視眼的な仕事ではないはずだ。

研究者はいう、いわゆる「競争的資金」ではなく、裁量で使える予算配分がもっと欲しいと。 続きを読む 国の科学研究予算って本当に必要ですか?

穴だらけの公営社会保障への加入強制は違憲でしょ?

多くの人が気づいているように、国の福祉というのは、本当に穴だらけだ。

役人が「適正」ならそんなことあり得ないはずだろうが、実際に穴だらけなのだからどうしようもない。困ったことに、私たちは強制的に財産を奪われることで、そんな穴だらけの制度に依存することを、強制されている。

民間の保険会社や慈善団体から市場を奪って公が税金をつかって独占しているのだから、公務員の間抜けを放置したら生命にかかわる。 不完全にしかできないなら、せめて、強制をやめるべきだ。 続きを読む 穴だらけの公営社会保障への加入強制は違憲でしょ?

安心・安全のための費用の経済的合理性が行方不明になる理由

日本人はなんでもかんでもリスクがないことを求めすぎる!

そう、リスクに対する対策に経済的な合理性があるのか、ちゃんと検証していないように見えるのだ。とはいえ、あらゆるものが過剰に安全とも言い難い。平時には安全のためと称して時に無意味なほど大きなコストが投じられる一方で、本質的にはリスクが放置されたまま事故が起き、膨大な費用を納税者が負担するという間抜けな話を私たちはいくつも知っている。

誰もが楽に暮らしているわけではない。安全や安心に費用をかけるにしても、無尽蔵に費用をかけてよいはずはないことは明らかである。だからといって取り返しのつかない事故を起こしてはならない。

いったいどうやったら、安全対策の経済的合理性は判断できるのだろうか?

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「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

憲法は、政府が表現の自由へ干渉することを厳格に禁止している。だが、それでは弱者が守られないという人もいる。とはいえ、もちろん憲法は弱者を蹂躙するように設計されているわけではないはずだから、憲法を無視して表現の自由を制限するべきという主張にはきっと何か間違いがあるはずだ。

表現の自由を前提としながらどうして弱者の立場が守られるのだろうか? 続きを読む 「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由