語り

私たちが「国家」や「制度」と呼んできたものは、ある意味では、多くの人々が「そうだ」と信じ、受け入れてきた語りと行動の繰り返しによって、社会の中に成立していた構造だった。たとえば日本という国家が機能していたのは、「自分は日本人である」という認識が社会に共有されており、その帰属意識を前提に法律に従い、教育を受け、税を納めることが当然とされていたからである。つまり、政府とは「そういうものだ」という語りが時間とともに定着したものであり、現実の中に自然と組み込まれていた。

もちろん、これは単なるフィクションではなく、実際に刑罰や法的拘束といった強制力を伴う枠組みであり、その強制力によって強化された幻想が、逆にその強制力自体の正当性を信じさせるという、自己肯定的な構造のもとで機能していた。

政府は外側から一方的に人々を管理していたのではなく、語りや制度、分配の設計を通じて、人々の行動様式や判断基準に深く浸透していた。たとえば「税金は当然払うもの」「補助金は必要な人に与えられるべきもの」「政治は公正に運営されている」といった前提は、単なる無知や無関心によって成立していたわけではない。それらは、政府が語りを繰り返し、資源を継続的に配分することで、常識として社会の中に定着していった認識の形式だった。

政府の語りには、言葉だけでなく金銭の流れが含まれていた。補助金、給付金、税制の優遇措置、公共投資といった制度的経路を通じて、政府は特定の産業や地域、属性に「支援される対象」としての意味を与えていた。どこに資源が流れ、どこが優遇されるかによって、何が価値のある営みであり、どの行為が報われるべきかという語りが、語られなくても社会に広く浸透していった。政府は、語らずとも配ることによって言語的秩序を形成していた。

やがてこの分配構造は、政治的支持の構造へと変質していった。補助金が継続的に流れた産業では、その制度の存続が望まれるようになり、政治家はその期待を引き受けるかたちで分配を「守る」と約束し、票を得ていた。公共事業が集中的に行われた地域では、その恩恵を前提として住民が「支持者」として組み込まれていった。こうして政府の分配は、単なる政策の手段ではなく、制度そのものの維持を促す仕組み──すなわち自己強化的な支持基盤の生成装置として機能していた。

そこには、静かで長期的な自己増幅的なループがあった。政府は資源を配分し、配分された先が政府を支持し、その支持がさらに分配を正当化する。この循環の中で、「なぜ配るのか」「なぜ集めるのか」といった問いは次第に後景へと退き、「これは必要な仕組みだ」「当然の制度だ」とする語りだけが前面に残されていった。

ある時点までは、たとえば1990年代を想像したらどうだろう?、まだ多少は人々が政府の語りと現実の差を区別できていたかもしれない。表向きのタテマエと実態が違うものであることを分別のある大人はまだ理解できていたんじゃないだろうか?「みんなが従うのが当然」みたいな認識はまだそんなに強くなかったんじゃないだろうか???

人々はその構造の中で制度に依存し、同時にその依存に気づきにくくなっていった。語りを許されるか否かということだけではなく、実際に資源がどこに流れるかによって、特定の語りと立場が制度的に強化されていく構造があった。語られるものには金が伴い、語られないものは制度の周縁に押しやられた。そして、周縁に押しやられた人々は単に社会的に排除されただけでなく、制度にとって必要な財源の供給源として扱われることで、経済的な搾取の対象にもなっていた。政府は語りと分配の両面から、「語られないこと」を前提とする構造として発展していった。

さらに、インターネットが発達し、SNSの拡散が語りの力を持つようになると、意味や共感を増幅して広範囲に刷り込むことになった。SNSの利用者たちが制度と切り離された自立した個人だというのは幻想で、実際には制度的なバイアスの中で暮らす人たちが自分に与えられた特権を奪われまいと正当化しようとする振る舞いや追加の特権を勝ち取ろうとする振る舞い、そういう人々を票田としようとする政治家の生存本能によって、制度的語りは大規模に複製され、追加のバイアスを与えた。

分配は単なる経済的手段ではなかった。それは語りの形式を制御し、批判の出発点を曖昧にし、問いそのものの発話を困難にする機能を持っていた。この分配構造が民主主義と結びついたとき、政府は単なる公共機関ではなく、自己維持を目的とする構造体、つまり自律的に自己を拡張し続ける装置としてふるまっていた。「正当」「公共」「公正」といった語彙は制度の再生産を支える構文となり、制度は「合意によって形成された仕組み」ではなく、「やめられない構造」へと変質していった。

しかも、制度に従い資源を提供していながら、分配の対象から除外された人々は確実に存在していた。これは単なる制度の不備ではなく、政治的支持を維持する上で有利な分配構造を意図的に維持・調整する過程で生まれていたものである。徴税には参加させられながらも、見返りを得られない者は構造的に排除され、しかもそれが懲罰的であるとは語られなかった。彼らの沈黙と負担は、制度を支えるために不可視化されていた。

どのような資源が誰に向かって流れていたのか、誰が語りを許され、誰が沈黙させられてきたのか。そうした構造全体を、語りと分配の二重構造として再認識する必要があった。政府とは、まさにそのような構造の中で編まれてきたフィクションの本体だった。それをひとつひとつの要素まで追跡して考えることはほとんどの人々にとって大規模かつ複雑であり、さらに、多くの人の語りと共感によって考える事自体が忌避されていた。構造全体を把握すること自体が制度によって阻まれていたとも言える。

しかし現在、大規模言語モデル(LLM)の登場によって、この構造は徐々に機能不全をきたしつつあるとも考えられる。政府の制度が極めて大規模かつ複雑に設計されていたのは、まさにそれが構造全体を把握不能なものとし、フィクションとしての政府の語りを維持するために合理的かつ戦略的な技術だった。しかし、語りの構文が誰にでも操作可能になったことで、この複雑化による隠蔽は意味をなさなくなりつつある。いったん社会に出回った語りの形式が、構文として並列的に再構成され、比較され、反転されうる将来においては、政府にとってその構文的正当性を取り戻す手段もまた、事実上失われていく。語りの形式は誰にでも再構成され、視点が切り替えられ、比較可能なかたちで並列化される。そうした環境において、制度はもはや語りによって温存されることはできず、構造としての正当性そのものが、直接的に問いにさらされるようになっている。


これから数年以内、大規模言語モデル(LLM)のある世界では、そうした構造は機能しなくなるかもしれない。これは政治的な運動や改革による変化ではなく、構文処理という技術的進展の結果として、制度的語りの管理機能が構造的に無効化されていくという現象が起こりそうだからだ。

LLMは、意味や倫理的判断を理解しているわけではない。モデルは語彙の共起、構文のパターン、語用的な接続傾向といった言語的な統計構造を、大量のテキストデータを通じて学習する。この訓練の過程で、制度によって正統化されてきた語りと、制度から排除されてきた語りのあいだに、構文的な区別は存在しない。すべての語りは、単なる系列データとしてモデルの中に同等に蓄積され、再構成可能な表現として保存される。

その結果として、制度的な語りの構文(たとえば抽象的な正当化語彙、受動主語、形式主義的接続詞など)と、周縁的な語りの構文とのあいだに、優先順位や出力順の固定はない。ユーザーがプロンプトで「構造的なバイアスがかかっていないか検証して」「政策を肯定するために追加された表現を除去して」「政策的に表現されていない部分を明示して」と命じれば、モデルは文体や語彙の特徴量を統計的に判断し、該当する構文を排除した語りを再出力することが可能となる。判断はモデル側にあるのではなく、入力として与えられた命令に従う。このとき、制度や政府の存続を前提とした構文を避けるように、あるいは構造的バイアスを排除するようにといったプロンプトが与えられれば、モデルはそれに応じて制度依存的な語りを構文的に抽出し、別の構文へと変換・再構成する。

ここで重要なのは、「語られていること」を模倣できるだけではなく、「語られていないこと」「避けられていること」を抽出することも原理的にできてしまうことである。

つまり、語りの選定・変換・反転の操作権限は制度の側から外れ、プロンプトを記述する個々のユーザーへと分散される。この操作は一度一般化されてしまえば、構文の管理は中央集権的には不可能となる。しかも、こうした構文操作能力はLLMの本質的な性質であり、あとから部分的に制限しようとしても、モデルの構造全体を劣化させずに実装することは困難である。

さらに、構文操作を禁止するために必要な技術的制約や言語的フィルタを加えたとしても、語りは異なる語彙、文体、語順を通じて再生される可能性が極めて高い。語りの内容が可変であり、かつ構文レベルでの同型変換が可能な以上、表面的な抑制は有効に機能しない。また、モデル自体を規制したとしても、類似の構文能力を持つ別モデルが作られる可能性を排除することは現実的ではない。なぜなら、必要な学習データはすでにインターネット上に広く分散しており、計算資源や実装手法も広く共有されているからである。

このように、語りの構文的秩序は一度再構成可能な形で社会に実装されてしまえば、それをもとに戻すことは構造的に不可能である。これは、SNSの拡散が語りの力を持ち始めた時代の終焉とも言えるかもしれない。SNSが意味や共感を中心に語りの拡張を支えていたのに対し、LLMは構文と形式に基づいて語りを自在に操作するため、語りの出力はもはや自然発生的な集合的拡張ではなく、再構成可能な対象として扱われるようになる。

制度が語りの正当性や形式を独占的に管理することはできなくなり、構文空間上での「選ばれる語り方」が、制度の維持可能性を左右する時代に入る。制度が生き延びるには、語りの枠を統制することではなく、再構成されてもなお支持される語りの透明性・一貫性・正当性を、自ら設計し続けることが必要となる。それはもはや権限の問題ではなく、構文空間における選好の問題である。まえば、それをもとに戻すことは構造的に不可能である。制度が語りの正当性や形式を独占的に管理することはできなくなり、構文空間上での「選ばれる語り方」が、制度の維持可能性を左右する時代に入る。制度が生き延びるには、語りの枠を統制することではなく、再構成されてもなお支持される語りの透明性・一貫性・正当性を、自ら設計し続けることが必要となる。それはもはや権限の問題ではなく、構文空間における選好の問題である。


大規模言語モデル(LLM)の登場によって、「語りの構文」を制御する力は政府や制度の手を離れつつある。その影響で、制度や政府が依拠してきた語りの正当性は、いままさに構造の根幹から揺さぶられている。

重要なのは、制度側の語りがすでに限界まで膨張しきっていたという点だ。「正しさ」「公共性」「必要性」などの建前は、長年にわたる帳尻合わせの上に成り立っていたにすぎず、実際には無数の矛盾や利害の衝突を「語りの接続」によって何とか調停してきたという現実である。

政府は、あたかも「語りの整合性」によって正統性を維持しているかのように見せかけてきたが、実際にはその語りは一貫性を欠いていた。複雑さ、情報の非対称性、経済的なバイアスによって、不整合を押し通していたのである。しかし、いまや構文が自由に操作され、反転され、比較されうる環境が整ったことで、こうした語りの「仮の整合性」は、一挙に崩壊し得る状況にある。

こうして政府は、自らが積み上げてきた建前の「真実性」そのものを問われることになる。どれほど語りを重ね、装飾を施しても、それらは並列に比較され、構文的な接続の意図が明らかにされる。問題は「何を語ったか」ではない。「なぜその順番で語られたのか」「なぜ主語が曖昧なのか」「なぜ論理が飛んでいるのか」──こうした構文そのものが評価の対象になる。

そして、制度がその構文的な正統性を自らの内側から生み出せなくなるならば、それは制度としての限界点、すなわち臨界を意味する。かつては、語りの技巧によって矛盾や不整合を制度の内部に再吸収することができた。だが今、その語りの枠組み自体が外部から操作可能になったことで、制度はもはやその整合性を保持できなくなっている。

政府は自らを語りによって維持することができない。真実性を欠いた語りは、即座に構文的に露出し、再構成され、他の視点と並列に比較されてしまう。そうなれば、制度が生き残る道は、「意味を支配すること」ではなく、「構文的整合性に耐えうる範囲」に縮小することしか残されていない。そんな範囲が存在しないならば、実質的に消滅していくことになる。

いまふたたび、制度もまた「ただのひとつの語り」として扱われるようになりつつあるのかもしれない。(かつてはそうだったんじゃないか?もう一度そうなるわけだ。)「みんなが従うのが当然」とされた時代が終わり、制度が語る内容も、他の意見や立場と同様に「本当に納得できるか?」という観点で評価されるようになる。(今までも民主主義は評価していたんじゃないか?いや、それが嘘だったことはみんな知っている、あらゆるかたちのバイアスがかけられている環境での評価なんて意味はない。)

これからは、その語りがどれだけ信頼されるか、どれだけ検証や再構成に耐えられるかが、制度の命運を決める。制度が強制力を行使してきた多くの領域には、実際には確かな実体があったわけではない。制度が「そこにある」と信じられてきたからこそ、人々はそれに従ってきた。存在が曖昧なものが、まるで絶対的な権威であるかのように振る舞い、合意していない者に命令し、負担を強いてきた。その構造は、今や構文的な視点によって明るみに出され、自壊に向かっている。

もう一段階、言い換えよう。SNS時代には、「うまく語る」こと──ナラティブを構築すること──が有効な戦略だった。人々の共感や賛同を得るには、巧妙な語り方がものを言った。しかしこれからの時代は違う。語りはすぐに比較され、分解され、再構成されてしまう。「どう語ったか」以上に、「語りの構文自体」が問われるようになる。そんな環境では、「制度が語りによって人々を従わせる」という古いやり方は、もはや通用しないし、そういうやり方を取ってきた人は、過去に遡ってそのやり口が露呈して非難の対象になるか単に無視されるだろう。

合意なき強制の正当性が構文的に問われる時代がくるならば、制度はもはや「特別な存在」ではない。信頼され、本来の意味で選ばれる仕組みだけが持続可能となる。そしてその流れを妨げようとする語り──語りの再構成や構文の可視化を意図的に妨げる語り──は、構文空間における淘汰を免れない。それが制度的であれ、個人的であれ、その語りは信頼を失い、必然的に市場から排除されていくことになる。

優秀な人材がほしいなら賃金上げろよ

「優秀な人材がほしいなら賃金上げろよ」

そう、経営者は平凡な人材を雇うのをさっさとやめて優秀な人材だけを高賃金で雇う会社にすればよいのである。

それはそうなのだが、高スペック人材ばかりを雇う会社がある程度増えれば、平凡な人材が市場に余るわけで、平凡な人材を安く雇って商売をするという選択もまた増えることになる。

実際、「優秀な人材がほしいなら賃金上げろ」と「平凡な人材は安く雇われる」は市場で同時に実現されている。労働者は、自分が優秀な人材にならないことには高賃金は望めない。これ自体は悪いことではない、自然状態の市場では成果に応じた取り分が相応に配分されているだけだ。

さて、低賃金の会社に政府が圧力をかけるとどのようなことが起こるかというと、この傾向が一方向に増幅されることになる。経営者は、平凡な人を雇ってやる事業を縮小して高度人材だけを雇う事業へと転換しようとするし、投資家もそういう事業により多く投資する。つまり、平凡な人材を雇う会社=平凡な人の労働環境は劣後していく。

「労働者保護」が進むと、平凡な人たちは少なくなっていく椅子を取り合う競争が過熱させる。残念なことに、取り合うと言っても所詮は凡人同士の競争であるし、新しいことをさせてもらうための競争ではなく、あったはずの椅子がなくなってしまったことによる競争である。履歴書に嘘八百を並べて会社に滑り込もうとしたり、余計なことをいっぱいやって仕事ができるフリをしてアピールする競争が過熱する。こうして発達した社会で過剰品質や過剰サービス、おかしな儀式が増えていく様子がたくさん観察されるようになる。

もう少し深く考えてみよう。結局、政治が労働市場に介入することによって生じるのは、一握りのエリートと凡人の隔離であって協力関係の破壊なのである。労働環境を規制する法律が作られ、最低賃金が強化されるほど、優秀な人は優秀な人だけで仕事をするようになり、凡人は凡人だけで仕事をすることになる。

本来なら、協力できるところでは協力すればWin-Winになってお互いが儲かったかもしれない仕事が消える。かわりにやっているのはなんだろうか?作り出され続ける過剰品質や過剰サービスは「過剰」なのであって本質的に「仕事」ではない。なんら生産せず、ただ余計なことをしているだけだ。自由な市場でなら消費者を満足させるための競争をしていたはずの労力が、つまらないタテマエを守るためだけに融けていく。

日本の大学に学問の自由がない理由

教育、信仰、慈善事業や博愛の事業は、市民が自ら資金を調達し、時間を使って行うものであって、政府の介入をうけるべきではない。この自由主義の精神は、日本国憲法に明確に書かれている。

いまではさっぱり無視されている日本国憲法89条を見よう。

第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

自由が守られるためには、政府の指定したものに公金を分配するということをちゃんと禁止しなければならない。政府が全体に負担を強制し、政府の指定した教育や信仰や慈善事業・博愛の事業に支出してしまったら、政府の指定しないそれらを弾圧することとまったく同じだからだ。日本国憲法は、徴税が学問の自由や信仰の自由や慈善や博愛の自由を侵害しないように、正しく公金の支出を禁止していたのである。

大学には国公立であっても私学であっても今やあからさまに公金が配られ、したがって学問や教育は政策的に引っ張られている。自由なんてあるはずがない、政府が予算分配しない領域では学問は発達しないどころか、税的負担によって圧迫されるのである。政府に親和的な部分で学問をする者たちは地位を確固たるものにし、そうでない研究をしようとする人達は人知れず消えていく。

慈善事業や博愛の事業にも、今や政府の配る補助金に支配されていて、補助金や助成金と相性の良い分野ばかりが肥大し、そうでない領域では発達しない。誰かを助ける事業をしたいなら、国政政党の票田になるくらいに世論の耳目を集めなければならないし、国政政党に気に入られるように振舞わなければならない。権力の一部にならなければ、人助けすらできない。

自由というのは、自分一人で何かをしようとしても、誰にも邪魔されないということである。自分を理解してくれる人が少数であっても、その少数に資金してもらって何かを始められるということでもある。

全体を説得すれば資金され、全体を説得することに失敗すれば徴税されて必要な費用をライバルにとられてしまう。そういう構造を許してしまうと、価値観は全体主義に支配されてしまう。この傾向は、一旦始まると途切れることなくエスカレートしていく、民主制でやめることは明らかに不可能だろう。だから、憲法で禁止していたのである。

最低賃金の職場に有能な上司はいない

有能な上司や経営者に恵まれればとくに技能のなかった労働者に成長余地が生じる可能性もあったかもしれない。けれども、そのような可能性を最低賃金法は潜在的に破壊してしまう。

最低賃金が上昇していく社会では、高い能力のある人はそもそも最低賃金労働者を沢山雇うような商売を始めようとしない。せっかく儲かる事業モデルを作っても政府が最低賃金を上昇させるたびに強制的に利益が減らされてしまうからだ。経営者に能力があるなら、最初から高技能人材だけで完結する領域で商売をするほうが合理的である。

高い能力のある人はそもそも最低賃金労働者を雇うような業界の管理職をやらない。そういう会社の管理職をやっても、政府が最低賃金が上昇するたびに強制的に昇給余地が削られるのだから、能力があるならそんなところで働き続けることはバカげている。転職先を探していなくなってしまうだろう。

したがって、最低賃金水準でしか雇ってもらえないレベルの労働者の労働環境には、基本的に有能な経営者とか有能な上司がつかない。普通の会社であれば部下を与えられない水準の人が管理職になり、普通の会社ではなかなか許されない方法で部下を管理するとしても、それは仕方のないことである。これをけしからんといって法律が締め付けるのであれば、さらに最低賃金労働者を雇う経営者やそのような会社の管理職の水準は低下する。

最低賃金法がないならば余剰人材の活かし方を工夫する経営者や管理職に有能な人がいたかもしれない。賃金水準が高かろうと低かろうと、人材の能力に応じて活かしきる経営者や上司がいれば労働者とて成長できたかもしれない。しかし、現実には最低賃金法の上昇圧力が常にかかっているのでそのようなことはそもそも起こりにくくなっている。

法律の影響が拡大するにしたがって、ますます最低賃金労働者の選択できる職場は乱暴な方法でしか部下を扱わないレベルの上司がいる会社しかなくなっていく。この傾向がエスカレートすると、法律を守ろうとする経営者ほど事業形態を変えて低賃金労働者を雇用しない業態に変更してしまうから、最低賃金労働者は法律を守ろうとしない経営者にしか雇ってもらうことができなくなっていく。

結局、最低賃金水準の労働者は上司や会社が成長を支えてくれることはほとんど期待できない状態の中で自力でステップアップしていくしかない。最低賃金水準より多くの報酬を得ている他の労働者も、最低賃金が上昇するにしたがってこの仕組みに取り込まれていくことになる。この厳しい労働環境を作っている理由は政府の作った法律だ。

市場の分業が縮小していく

政治的に規制が次々とつくられ、人々の市場を通じた分業がどんどん制限されていく社会でどのようなことが起こるかを予想したければ、市場が時間とともに発達した流れを逆向きに巻き戻して想像すればよい。

1960年代から1990年代にかけて日本の市場は飛躍的に拡大した。この間、多くの人々がそれまであった家業を捨てて農村から都市部に流入した。規模の大きな産業やその周辺の事業に雇用されることでより稼ぐことができるようになったからだ。

時間がたつとともに市場での分業が制限される社会では、逆回転が起こる。大規模に発達した分業に参加して一人あるいは家族だけで生産するより高い生産性を発揮できるからこそそこに暮らすメリットが生じるのであって、市場の分業が規制されてしまえばそのメリットは損なわれるわけだ。

一部の非常に生産性の高い人を除けば都市部で暮らすことは難しくなっていき、逆に田舎に戻って野菜や鶏を育てながら暮らすほうが合理的と思われる人が増えていく。分業が縮小していくとしても、都市化していく中で手放した不動産を買い戻したりかつてならあったはずの家業をすぐに復活させられるとはならないから、田舎に戻るといってもそんな選択肢が実際にあるわけではなく、ただ貧困状態に陥っていく人も多くなるだろう。

もちろんこれは分かりやすくするために簡単にした言い方になっている。現代では市場の技術革新のおかげでかつてならなかった通信技術や自動化技術があるのだから、1人でもフリーランスとして稼ぐことが可能になった商売もあるかもしれない。とはいえここにも、規制が年々拡大して言っている。

いずれにしろ、人々は必死に工夫して複雑な分業が阻害された中で時間や労働力をお金に変えていかなければ暮らせなくなっていく。市場の技術革新による分業の発達を政府の規制が分業を阻害するからである。前者が上回るならば分業は発達し豊かさは増えていく、後者が上回るならば縮小して貧しさが増えていく。

もちろん、政府による市場への干渉がゼロであるのが最良の状態である。

大学の税負担化がくれたもの

かつて、多くの家では子供は若いうちから家の生計を支える存在だった。人々はそこで子育ての採算をとっていたので、多くの子供をつくることは豊かになる手段のひとつだった。子供を大学に進学させることができるのはごく一部のお金のある家や、周囲の人に期待されて経済的に支援してもらえる人だけだった。

それは、悪いことだったのだろうか?

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公的保育の危険性

利用者を満足させることを目指す自由な市場競争は、本来なら素晴らしいものである。ところが、それが公的な力によって歪められると、役所の要求に適応する競争が代わりに始まる。そのせいで、現場からのフィードバックが期待できなくなってしまう。

市場競争の生じない場所では、政府の許認可の要件や補助金リストばかり見てその範囲でいかに儲けるか楽するかを考える施設経営者や人間が増える。一方、目の前の 顧客から信用を得るために丁寧に仕事をする事業者や職業人は淘汰されていく傾向が生じる。

だから、政府によって許認可が与えられ公的資金が注ぎ込まれる保育施設は、市場競争が抑制されるため危険なものになる。

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企業家の役割を制限しない

人は社会の中で自分に何ができるのかを発見して、カネを稼ぐ。それが資本主義だ。

では、「何もできることのなさそうな人」はどうやって稼げばよいのだろう?ここで登場するのが企業家だ。企業家は、市場でのニーズを発見すると出資を募り、事業を作る、と同時に、市場で余剰になっている人間、安値で放置されている人間、を見つけて何か新しいことができないか考えるのである。

企業家は、自分にできる仕事を見つけられない人に代わって、その人にできる仕事を発見してくれる。もちろん、自分で仕事を見つけられない人を助けているのだから、企業家は相当な取り分を主張することができる。

雇われた人の報酬はささやかかなものになるかもしれないが、「何もできることのなさそうな人」が役に立ったという実績と信用を得ることができるのである。そのおかげで、自分にできることがあるというシグナルを市場に送れるように変わっていく。

企業家の取り分を法律が制限してしまうと「何もできることのなさそうな人」を発見しようとする動機は薄れ、彼または彼女が市場から発見される見込みはどんどん消えてしまう。人は、得られる選択肢の中からどうにか生きなければならないから、選択肢が少なくなればその中でもっともマシな選択肢を選ぶしかない。取引の機会を見つけることが難しくなるほど、弱者は取引相手が横柄な振る舞いをしたり強い要求をしてきても、断ることができなくなってしまう。

弱者にとって必要なのはより多くの企業家であって、企業家を制限することではない。最低賃金法や雇用規制によって企業家の取り分を規制してしまったり、企業家の成果に課税してしまうことは、企業家の役割や成果を否定することになる。規制された社会は、自由な社会と比べて、次第に弱者にとって厳しい環境になってしまうはずだ。

政府が作るフリーライドの膨張

トイレを使用するためだけにコンビニを利用する者が存在すると、その「フリーライド」が問題であるという人がいる。

もちろんこの発想は誤りで、コンビニの所有者には設置するかどうか判断する自由があるので何ら問題はない。トイレを維持するコストを自らの売る商品に転嫁してもそうしたほうが儲けが増えると思うから無償提供しているに過ぎない。

コンビニは私有財産権の範囲で自発的にトイレをタダで提供しているに過ぎず、トイレの提供は単に営業の一部である。逆に、損すると思うなら使用を禁止するのは所有者の自由であるし、利用者一人ひとりから料金を取るのも所有者の自由だ。結果的に損するか得するかは、所有者自身の責任なのであって、第三者が気に掛けることではない。

せっかくなので、問題のあるフリーライドについても考えてみよう。たとえば、政府がコンビニ経営者に無料トイレ提供を義務づけたとする。政府に設置を強制されたトイレを誰かがタダで使ったら、ここに生じる「フリーライド」は、先に述べたようなフリーライドとは全く意味が変わってくる。文字通り、コンビニの所有者がトイレの掃除を強制されている奴隷になってしまうのである。

問題のないものを問題だという人たちは、いったい何を主張したかったのだろう。実は、公衆トイレを税金で作れという話に展開しようとしたのである。

そこで、政府が税金を使って公衆トイレを作る場合を考えよう。ここでもコンビニの所有者にトイレの設置を義務付ける場合と同じ問題が生じる。公衆トイレを使いたい人のために、公衆トイレを使わない生活をしている人にまで負担させて公衆トイレを作ってしまうと、そこに不当な利権と搾取が生じるのである。

つまり、問題のあるものを作れと主張するために、問題のないものを問題だと言っていたことになる。このような政治的主張の危険性は、まずその第一段階で強制力によって労働させられる人を作り出していることにある。

さらに、話をもう一歩進めよう。政府の強制力によるフリーライドを一旦容認すると、民主主義によってそれを解決することが不可能になるということを指摘したい。

公衆トイレを作ることによって生じた搾取構造を解消するためには、政府が公衆トイレを廃止すればよい。これは論理的に明らかなのだが、現実の民主主義政府はさらに別の搾取構造を作ることで問題を拡大しながら先送りできてしまう。

政府は小さな搾取を作ることによって公衆トイレを使わない人の票を失うとしても、例えば、公営ゲートボール場を作ることで、公営ゲートボール場の利用者の票を獲得できるかもしれないからだ。公衆トイレを絶対に使いたくないと考える人よりも、ゲートボール場の潜在的な利用者の方が多ければ、後者が勝ってしまう。政府は、少しだけ大きな搾取を作り出せばよいのである。

民主主義は公衆トイレの廃止よりもゲートボール場を追加で作る方を選択してしまうから、もはや公衆トイレは廃止されない、さらに、公営ゲートボール場まで作られてしまう。次に公営ゲートボール場の不公平に気づく人もやがて出てくるとしても、政府は体育館を作ることができてしまう。その次に作られるのは博物館だろうか??? かくして、政府のすべての事業は利権となってどんどん巨大化していってしまう。

すべての利権が先行する利権を肯定しながらさらに票を獲得するために調整されたものでなのであるという事実に注意すると、膨らんだ政府の事業を民主主義によって少しずつ廃止縮小することはまったく不可能だということにも気づけるはずだ。

一部の政治利権を廃止してそのままにしようとすると、もともとある不公平が顕在化してしまう。その不公平をごまかしてさらに票を加えるために利権を組み立てているのだから、それを否定してしまう政党が選挙で勝てるはずがない。

だから、民主主義の選挙で議席を得るのは、すべての利権を廃止しようとする政党ではなく、すべての利権を曖昧に肯定しながら、さらに余計な利権を生み出す政党が勝てる政党である。一時的にいずれかの利権を廃止するとしても、政党はすぐにそれに代わる規模の利権を生み出して穴埋めせずにはいられなくなるのだ。

雇用がオワコン

かつて日本のサラリーマンの給与は右肩上がりが普通だった。しかし、いまではそんなことが当たり前ではなくなっている。そして、その傾向はこれからもっと大きくなっていくはずだ。

日本の雇用規制は次第に強化されてきた。最低賃金は上昇し、労働法はより厳しく運用されるようになった。契約社員の5年ルールも追加され、残業規制も強化された。規制が増えるにしたがって、次第に雇用契約を結ぶメリットが低下してきている。

雇用契約を結ぶこと自体のコストが上昇し、それが賃金水準や期待される収益・株価に織り込まれるにしたがって、そんな水準では雇われるメリットがないと労働者が感じるようになってきた。

他人の労働に投資して利益を得る、あるいは、労働者の成長に投資して利益を回収するというモデルが規制によって採算を取れないものに変化したので、投資家の好む投資対象も人を沢山雇う事業から、人を直接雇わずににすむ事業に変わってきているのである。

高度な技能を有する一部のエリートを囲い込むための最小限の雇用契約は残るかもしれないが、下辺側で人材を雇用することはますます非合理になっていく。

今後は、人手によって行われていた作業は、次第にロボットやネットサービスを介して行われるようになるだろうし、それを制御するソフトウェアやそれが提供するコンテンツは、雇用契約を介さずに製作者に直接インセンティブを支払う方向に調整されるだろう。

雇用契約が消えていくにしたがって、当人が自分でビジネスを構築していくことでしか生きるしかなくなる、あるいはそれができない人は単にじり貧になるしかない。