日本の大学に学問の自由がない理由

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教育、信仰、慈善事業や博愛の事業は、市民が自ら資金を調達し、時間を使って行うものであって、政府の介入をうけるべきではない。この自由主義の精神は、日本国憲法に明確に書かれている。

いまではさっぱり無視されている日本国憲法89条を見よう。

第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

自由が守られるためには、政府の指定したものに公金を分配するということをちゃんと禁止しなければならない。政府が全体に負担を強制し、政府の指定した教育や信仰や慈善事業・博愛の事業に支出してしまったら、政府の指定しないそれらを弾圧することとまったく同じだからだ。日本国憲法は、徴税が学問の自由や信仰の自由や慈善や博愛の自由を侵害しないように、正しく公金の支出を禁止していたのである。

大学には国公立であっても私学であっても今やあからさまに公金が配られ、したがって学問や教育は政策的に引っ張られている。自由なんてあるはずがない、政府が予算分配しない領域では学問は発達しないどころか、税的負担によって圧迫されるのである。政府に親和的な部分で学問をする者たちは地位を確固たるものにし、そうでない研究をしようとする人達は人知れず消えていく。

慈善事業や博愛の事業にも、今や政府の配る補助金に支配されていて、補助金や助成金と相性の良い分野ばかりが肥大し、そうでない領域では発達しない。誰かを助ける事業をしたいなら、国政政党の票田になるくらいに世論の耳目を集めなければならないし、国政政党に気に入られるように振舞わなければならない。権力の一部にならなければ、人助けすらできない。

自由というのは、自分一人で何かをしようとしても、誰にも邪魔されないということである。自分を理解してくれる人が少数であっても、その少数に資金してもらって何かを始められるということでもある。

全体を説得すれば資金され、全体を説得することに失敗すれば徴税されて必要な費用をライバルにとられてしまう。そういう構造を許してしまうと、価値観は全体主義に支配されてしまう。この傾向は、一旦始まると途切れることなくエスカレートしていく、民主制でやめることは明らかに不可能だろう。だから、憲法で禁止していたのである。

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