大学の税負担化がくれたもの

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かつて、多くの家では子供は若いうちから家の生計を支える存在だった。人々はそこで子育ての採算をとっていたので、多くの子供をつくることは豊かになる手段のひとつだった。子供を大学に進学させることができるのはごく一部のお金のある家や、周囲の人に期待されて経済的に支援してもらえる人だけだった。

それは、悪いことだったのだろうか?


教育は投資、とはよく言われたことである。投資であるなら、成功の場合と失敗の場合がある。期待される利益と懸念されるリスクは投資対象やその方向性の選択によってさまざまであるし、取れるリスクも人それぞれだ。それを自分で考えて自分の財産で行うのが投資というものである。実際に金を出す人は自らの責任で損得を考える、教育はたしかに投資の選択肢のひとつだった。

金持ちが高等教育を子女に与えることはとくに良いアイディアだった。余裕資金を自分の期待する子供の教育費用にあてる。教育投資に失敗するとしてもそのリスクを金持ちが負えば済んでいたし、教育投資が成功する場合はその子の所得は増え、同時に教育の成果は社会を豊かにした。金持ちが自発的にリスクを取り、投資する。それは結果的に余剰の豊かさを社会に還元していたのである。


時代を下って国が大学を補助してその費用を納税者に負担させる割合が増えるにようになると、教育は投資ではなく税金という仕組みを使って押し売りされるもの、半ば強制的に買わされるものに変化した。

昔の庶民は愚かだったから大学教育を買わなかったのではない、自分の持っている環境や資源の中で合理的と思えなかったからその選択をしなかっただけだった。ところが、税とというかたちで支払いを強制されることで、不相応にリスクの高い無謀な「投資」であってもそれを選択するように強制力が加えられることになった。費用は国が一時的にもってくれるといっても、実際にはまわりまわって税金として負担させられる。成功のインセンティブが大きく削がれ、失敗のリスクを余計に負わされるようになった。

庶民が余計に負担して無謀な選択をさせられるのとは逆に、金持ちは自らリスクをとらずに望んでいた教育を手に入れられるようになった。支払い能力があり、教育という時間とお金の必要な投資に賭けたいと感じていた人達はかつてならその費用をすべて負担して賭けていた。高等教育への税的な補助が増えた社会では、金持ちが自ら負担するはずだったリスクの一部を社会全体に負担させることができるようになったわけだ。

本来なら自発的には行わなかった選択を強制し、自発的に行っていた人から負うべき責任を取り除いてしまったのである。


どの大学に行けば税金をたくさん取り戻せるか、それが学歴競争という椅子取りゲームの根っこにあるものだ。

たとえ大学に進学させようとさせまいと、税金を通じてその費用の一部をとられてしまう。大学に進学しない人は、大学に進学する人の費用を部分的に負担させられることで貧しくさせられる。そういう仕組みになっているのである。

だから、大学に進学するとしても、公金の割り当てが少ない大学に進学した人は、公金の割り当てが多い大学に進学した人より貧しくさせられる。学歴が低い人ほど他人の教育費用を余計に負担させられる。

こうして多くの人々が学歴競争に閉じ込められた。


許認可によって独占を保護されている大学の経営者は、部分的には学生の払う授業料に依存していたとしても、その割合が低下すればするほ市場競争は消えていく。

利用者から投資対象として評価されることがなくなった大学は、大学はど学生やその親を満足させるための努力を減らした。そこに限られた資源を使うよりも、政府のつくる許認可と補助金獲得の条件と向かい合ったり、政治的に予算獲得を主張するための大義名分を作り出して、そこで利益を最大化することの方が生き残り戦略としてより重要になったからだ。

大学が許認可の要件や補助金の獲得ルールをギリギリで守ることで利益を最大化しようとすればモラルは崩壊していく。大学で「不祥事」が起きるたびに政府による許認可の要件や補助金の獲得ルールばかりが複雑になっていく。そのような「不祥事」の動機は大学が市場から切り離されることによってますます生じやすくなるのだから、この傾向には際限がない。

大学は、政府・文部科学省のつくるルールに縛られるばかりの機関となった。しかし、学問は生き物である、役人に正しく統制できるようなものではない。時々刻々と変化する複雑で多様な興味に自由に向かい合えないならば、存在意義がなくなっていくしかない。大学で得られるものは次第に陳腐なものになってゆき、人々は他の場所で自分の付加価値を高めなければ食べられない、誘導されるまま大学に進学して時間とカネを支払うことで負債を背負う人が沢山生じる社会になっていった。


市場競争から遠ざかるにしたがって、学生や親から見て投資対象として期待されていたかつての大学は、半ば義務的に時間を使うための場所に変化した。次第に大学進学のインセンティブはなくなり、その費用負担ばかりが目立つようになった。

大学進学が投資として成功する人は一部だ。極端に公金投入の多いごく一部の大学に進学し、そのなかでも特に予算配分の多い分野、研究室に所属し、その恩恵をめいっぱい享受でき、そのための熾烈な競争の中でも心身を保てた場合だけになってきている。大学の無償化(完全税負担化)によってこれらの傾向にはますます拍車がかかるだろう。

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