公営事業の民営化のあるべきかたち

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民営化という言葉を使うと、悪徳業者が荒稼ぎするイメージを持つ人もいる。そのような考え方は、ある観点では現実的であるが、本質的には間違っている。

ここ数年、政府が水道事業の民営化を議論しはじめている。『赤字だからと「国立大学」や「郵便事業」を民営化してきた国が今度は「水道事業」を民営化すると言い出した……』といって嘆く人もいる。だが、問題なのはそれらが「民営化された」ことではない、「ちゃんと民営化されなかった」ことなのである。

公的事業の民営化を議論するならば、完全に政治の干渉のない民間事業への移行を目指さなければ意味がない。

消費者に対して乱暴な事業者や、望まれないサービスを過剰に供給し続ける事業者は淘汰され、よりまっとうな事業者が必要とされる範囲で生き残るのが市場である。悪徳業者が荒稼ぎしようとしても、市場で消費者に選択されなくなってしまうだろう。民営事業が悪徳なのに荒稼ぎするということは、本来ならあり得ない話なのである。もし悪徳業者が荒稼ぎできるとすれば、なぜだろうか?

そう、政府の強制力によって事業の独占が保護されてしまっている場合である。権力によって競合他社が排除されてしまったり、採算性がないにもかかわらず、税金で補助されてしまう。それでは、市場において淘汰されずに生き残ることになるとしても当然である。

JRや郵政に対して行われた「民営化」や、大学などに対して行われた「独立行政法人化」は、本来の民営化とは異なったものだった。役人が仕様を決めてその方向に運営され、政府の作った法律によって独占が保護され、多くの補助金が投入されることで、名ばかりの民営化だったのである。それらが一見すると普通の民間企業のように競争をしているように見えるとしても、実際には縁故資本主義の競争をしているのであって、自由競争ではない。だから、腐敗してしまう。

民営化して赤字なら速やかに倒産すればよい。だが、政府が税金を注ぎ込んだり、法律で参入を規制して保護してしまってしまっている。それでは、そもそも市場競争になるはずがない。消費者に求められないほどコストに見合わない品質でも、新規参入の邪魔をしたまま、事業を独占して居座ってしまうのである。そんなものをどうして民営化と呼べるだろうか?

権力者たちは本当の民営化などというものは望まない。民間企業のフリをしながら特権的地位の中で荒稼ぎして、政党に税金を還流する、都合のよい利権を作りたいに違いない。だから、政府がインフラを民営化するなんていったら「それは本当に民営化なのか?」ということを疑わないといけない。紛い物を「民営化」と呼ぶ政府や政党に騙されたら、間抜けというものだ。

税金の還流や、参入障壁となる法的規制、優遇を、完全に撤廃していき、政治の強制力が及ばないようにすることこそが大切だ。政府の独占から非効率で割高な事業を切り離すことこそが民営化のあるべきかたちなのである。

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