公的年金制度は民主主義が強いるネズミ講

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先行世代を養うために、後の世代に負担させることを前提とする日本の公的年金制度は、設計も実態も無限連鎖講(ネズミ講)そのものである。

人口増加の局面でしか成り立たない仕組みを、人口の多い世代が押し通し、それを国の制度であるといって、投票権すらなかった後発世代に押し付けた。単なる詐欺である普通の無限連鎖講よりも酷い、政府の強制力を利用した暴力といったほうがよいかもしれない。

無限連鎖講は、はじめたことが罪深いことで、拡大してしまったことは取り返しのつかない失敗で、それを受け入れることもまた罪深いことだ。それを、「生活できなくなるから」延長しろ、などというのは不道徳な暴力への加担でしかない。しかし、罪を背負っている多数の人々が民主主義にを悪用して制度の延長を求める。

老人の世代は、日本を発展させたのだから、その老後は若者が負担するべきだろう、などという人もいる。だが、債務を次世代に負わせて何かをしたことをもって、発展させたと評価することはできまい。

親が子に家を残してやったとしても、財産を食いつぶしてそれを上回るローンを残したなら、子のために財産を残したとは言えないだろう。それを、民主主義国家の政府の数の暴力でもって強制しているのが公的年金制度である。

理屈によって暴力を正当化することはできない。

「多数決で勝ったら奪ってよいのである、お前らが投票で負けるのが悪いのである」というなら、他人の善意や良心なんてまったく期待できなくなってしまって当然だろう。

他者から奪うことで生きた人が、他者から奪うことをやめることを恐れ続ける。たしかに、他人から盗むのをやめるだけで償いをするより先に助けてもらえるとは期待できない。

背負った罪は、償わずに消えるものではない。無限連鎖講は、最初の人も、途中の人も、みんな悪人とみなさなければならない。負債を積み上げた年寄りはもちろん責められるべきだが、負債を積み上げることを求める今の人達だって、責められる。

誰かが勝ちぬけたからといって、自分が無責任でいられるわけではない。当事者がその責任を負って、清算するしかない。それをいくら不公平だといってもどうしようもないことだ。

将来世代の利益を先取りして使い切ってしまったり、あるいは運転効率の悪い資産に変えてしまうことを許せば、 当然あとの世代ほど苦しくなる。そんな理不尽な虐待にもかかわらず必死に生産している人が社会を支えているというだけの現状があるばかりだ。

なんとか社会がまわっているように見えるとしても、蓋を開けてみれば中身は悲惨である。若者が生産的になって財産を持つ機会を政府が強制的に奪って、非効率な公務員がピンハネし、先行世代に配ってしまうような間抜けな仕組みを作ったら、高齢者を支えるリソースだって無くなる

奪い合いたいなら、助け合うことはできなくなるし、助け合いたいなら奪ってはならない。その当たり前を無視してネズミ講を放置するなら、当然導かれる結果だ。

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