本来なら、私たちは自分の感じたことや考えたことを伝えたいという衝動を持っている。また、他人の伝えようとすることを感じたいという衝動を持っている。
表現
生物学者たちは、サルやチンパンジーといった霊長類の顔に体毛が少ない理由を、表情を相手に伝えるためであろうと説明する。鳥や犬といった動物も、仲間と鳴き声によって情報を交換している。人類だけでなく、ある程度の社会性を持った動物は、伝え合いたいという衝動を持っている。
動物は、感じたことを相手に伝えることで、自分の感情を相手に伝え、相手がそれに好ましい反応をするか嫌悪感を示すかを試すことで、相手との距離感を確認しているのである。もし、距離感を誤れば、淘汰されてしまうことになる。同様に、伝えようとしている相手に気付くことができなければやはり距離感を誤って淘汰されてしまうことになる。
伝えたいという衝動も、それを感じ取りたいという衝動も、動物が進化の過程で生存競争における優位性を獲得した大切な形質なのである。
情報と知識
表現の人類的な発達は表現の自由度を大幅に増やした。言語や文字、彫像や絵画、声や音楽や通信、文学や信仰や科学、写真や映像や録音、算術やコンピュータといったものを作り出した。これらはみな、表現したいという衝動と、より多くの情報を表現する自由を拡張する試みの先に作られたものである。
人類は、顔をしかめることで必死に伝えようとするサルよりや、吠える犬やさえずる鳥と比べて、はるかに自由に情報を伝えることができる。情報を伝え合うことによって相手の必要なものを知り、余裕のある場合には共有したり、相手の必要なものと自分の必要なものが異なるならば交換しようとすることさえできる。
伝えられる情報が大きくなった今日、伝えようとする衝動の重みは交換される情報と比べて小さくなった。もっとも極端な場合は、伝えようとする感情はほとんどゼロになる。普通はそれを単に知識と呼ぶ。私たちは情報を発信し、受け止めて、理解しようとする。そして知識を蓄えようとする。こうして私たちは、自由に表現したいという衝動の先に強い社会性を獲得し、文明を持つに至った。
情報に支配される社会
正確に物事を把握しようとするために感情を排除して整理された知識はとても便利である。知識は考えるために使われ、再び情報を伝えるために再利用される。私たちは、見たり感じたことの無いものさえある程度正確に伝えることができる。
だが、情報とか知識というものは、本質的にあるべき伝えたい衝動と切り離された存在だから、それゆえに私たちは縛られやすい。私たちは、「相手がどう思うか考えましょう」という教育を受けることによって、表現を拒否されることへの恐怖を植え付けられている。あるいは、国家や社会によって表現することを禁止されてしまう。現実の私たちの表現は、強く意識しない限り、伝えたい感情を正直に伝えることに躊躇してしまっている。あるいは単に与えられた条件の中で情報を伝え、そこにある情報を拾い読むことだけに意味があると信じ込むことで自らを制限することを強制されてしまっている。
表現する自由を失うことによって伝えたいという衝動を失い、整理された情報を伝え合うばかりになった人々は互いの距離感が分からなくなって互いの多様性を知る機会を失って苦しむ。決して同質でない他人を同質なものと認識することを強制される結果、いつしか表現に感動することを忘れ、情報に溺れてしまうのである。
だが本来は、私たちは伝える自由を増やすために知識とか情報を扱う能力を獲得したはずである。自らを縛るためにそれを使わなくてもよい。
愛とは何か
受け取る人間は多様なのだから、伝えたいものと受け止める者のズレは当然存在する。だからこそ、持ちうる技術を使って他者との違いを表現して伝えたいと感じるのである。そして時には、共感する奇跡を愉しむことさえできる。
表現の自由度を獲得したいという心からの衝動よって技術を獲得し、身に着けようとするならば、その経験は鮮やかさを持つだろう。受け取る相手に合わせて妥協することによってではなく、自分の持つあらゆる技術を用いて表現することによって他人との距離感を試そうとする衝動によってなされるならば、表現者にとっても受け手にとっても、鮮やかな経験になるだろう。そこに見つける自由は楽しい感覚である。そして、やがて自らの表現の限界と衝突することによって苦しさを感じるだろう。私たちはこれを芸術という。
他者との距離感を試そうとする衝動とは愛であり、その最大の試みは愛し合うという行為に他ならない。愛は、相手との違いを確かめて自分の求めるものを伝え、相手が求めるものを知ろうとする衝動によって生まれる。やがてそこに違いを認めて、新しい制限を感じるようになる。傷つけ合うことを恐れることによって苦しさを感じ、もっと自由になりたいと感じるのである。
それにもかかわらず、愛とは与えあうことを義務付ける制限によって作られるものではない。何かに強制されたものであったなら、ギラギラと眩しく輝くにしろ、灰色にくすむにしろ、そこに鮮やかさと呼べるものは感じられない、つまらないものになってしまうだろう。自由な心から生じるからこそ鮮やかであり、楽しく、苦しいのである。