利用者を満足させることを目指す自由な市場競争は、本来なら素晴らしいものである。ところが、それが公的な力によって歪められると、役所の要求に適応する競争が代わりに始まる。そのせいで、現場からのフィードバックが期待できなくなってしまう。
市場競争の生じない場所では、政府の許認可の要件や補助金リストばかり見てその範囲でいかに儲けるか楽するかを考える施設経営者や人間が増える。一方、目の前の 顧客から信用を得るために丁寧に仕事をする事業者や職業人は淘汰されていく傾向が生じる。
だから、政府によって許認可が与えられ公的資金が注ぎ込まれる保育施設は、市場競争が抑制されるため危険なものになる。
保育園の経営者は政府の許認可の要件や補助金リストを見てその範囲でいかに儲けるかを追求しないと、ライバルに負けて儲けられなくなってしまう。儲けられなければ、同業者より多くの賃金を払うことができなくなるし、設備へ投資する余力もなくなってしまう。競争に負けて水準の低い職員しか雇えなくなるし、業務の改善も難しくなる。
結局、許認可の要件や補助金リストを見てその範囲でいかに儲けるかを追求することは、公的に保護された保育施設の合理的な生き残り戦略になる。つまり、そういう選択をしない保育施設は消えていって、そういう選択をする保育施設ばかりが残るようになっている。
現場の作業者を採用する場合も、この方針に対立しない人材を選ぶ傾向が出てくるし、あるいはこの方針に合致しない余計なことをするとしてもそのために追加の報酬を要求しない人材を選ぶことになる。やはり、その選択をしない施設は消えていくことになる。
だから、公的資金が注ぎ込まれる保育施設で事故を減らすには、現場や経営者は言われたこと以外を何もしないという前提で、行政が現場で起きうる事故のリスクや利用者に望まれるサービスを完全に把握してルールを組み立てるしかない。
当たり前だが、保育の現場の個別事情はさまざまで、さらに時々刻々と変化する。だから、行政がルールを組み立てなければならないといっても組み立てられるはずがない。生身の子供たちを相手にしている現場の方々は大いに心を痛めるだろう。けれども、現場の人はその状況を看過するしかない。
なぜ政府は、そんな危険な仕組みを作ってしまうのだろうか?
政府の許認可と補助金で保護するということは、現場からのフィードバックは一切必要としない、現場の視点なんていらない。当事者の声なんてどうでもいい、そんなものなくても役人の頭の中で全て解決できる、という傲慢な態度から始まったのかもしれない。
といっても、「行政が現場で起きうる事故のリスクや利用者に望まれるサービスを完全に把握してルールを組み立てる」ことが役人に実現不可能であることにはすぐに気づくだろう。不可能なことをやり続けることは不毛である。
定期的に事故が起こり、そのたびに人々が傷ついたり命が失われたりする。そういうことが起きるたびに、政府は新しいルールを加えることができ、政府は新しい税金の使い道を増やす口実を得られる。利用者や納税者にとっては悲劇であるとしても、政治家、役人、業界の有力者にとって美味しいから、次々とルールを複雑にし、新しい利権を生み出すことに夢中になるだけだとしても仕方ないということになる。
傲慢さや愚かさによって維持されているのか、それとも狡猾さによって維持されているのか、いずれにしても一旦公的保育を始めてしまったなら、それを廃止しない限り悪夢は終わらない。
ますます保育園の業務は複雑なルールに縛られることになり、ますます本質的な安全対策は現場から切り離された場所でしかできなくなっていく。一連のコストを負担する納税者の経済的余力はますます減り、ますます公的保育に頼らないと子育てできない社会になっていく。
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