政府による統制の存在しない自由な社会における犯罪者の扱われ方について考えたことをメモする。
自然法と犯罪
私有財産制における自由な選択は、人々の嫌悪感や親近感を許容して、考えうる程度に穏やかで合理的な棲み分けを市場の中に作り出す。ただ、報復や賠償と認められる程度を超えた殺人や盗みや詐欺というのは、相当に普遍的に拒否される。自由な選択を脅かすからだ。
消極的自由の侵害は、政府が存在してもしなくても罰をうける可能性が高い、このような「法」を政府の法律と区別して自然法と呼ぶ。
人々の自由な選択によって生じる自然法は、きっと殺人や窃盗を認めないが、しかし報復や賠償を一定程度に許容するだろう。
すでに殺人を犯した者を誰かが思わず殺してしまったとしても、ひょっとしたら人々の多くはそれを容認するだろう。正当防衛や報復は、それなりに容認されるはずだ。(もちろん、自然法は政府によって強制されるものではない。だから、実際に人々がどの程度許容するかは、正確にはわからない。自由な社会において生じるであろう自然法とはそういう性質のものなのだ。)
無政府社会における犯罪者の地位
他者の自由を尊重する者にとって、政府が存在しない社会は穏やかなものとなる。逆に、他者の自由を侵害する犯罪者にとって政府による刑罰がない自由な社会は危険きわまる。
なぜなら、他者の自由を脅かす犯罪者は、人々に取引を拒否されたり、誰かに報復されてしまう可能性がとても高いからだ。それを抑止する政府は存在しない。
私的な刑務所①
さて、そんな自由な社会でも、犯罪を犯した者を助けてやりたいと願う人だっているだろう。
公衆による罰から犯罪者の安全を守りたい人が、自発的に犯罪者を囲い込んで、自らの財産によって他の人が納得できるコンディションを維持しようとする。信用を取り戻す機会を与えたいと望む人が自発的にそうする、、自由社会における刑務所って、そうやって成立するのだろうか。
家族や友人や、可哀想だと強く感じた他人が、彼または彼女のために動いてやりたいと考えるかもしれない。
そういうことをするにはもちろん積極的に情報を開示しないと自らが危険になるし、他者の協力を得にくくなるだろう。もちろん、償いを拒否すれば、犯罪者も、それを囲い込んでいる人も危険になる。
自然に生じる刑務所も政府によって強制されるものではない。だから、実際にどの程度発達するかは、正確にはわからない。けれども、そうやってバランスした関係が、社会にとってもっとも穏やかで合理的な、犯罪者の扱い方なのだろうと思う。
私的な刑務所②
自由な社会でも「犯罪者をひっとらえて飼い続ける施設」として乱暴な刑務所が生じると考える人もいるだろう。
でも、自分が大切にしようと思っているわけでもない犯罪者を虐げるために、わざわざお金を払うのはバカバカしいことだ。一定程度にそういうことは起こりうるかもしれない。でも、実際には非合理なものとして市場から淘汰されがちになると思う。
報復代行業や賠償金取り立て業といった商売と、先に述べたような犯罪者保護のための商売が発達するかもしれない。両者は、互いに契約を結ぶことによって、有形力を行使するより穏やかな方法で、犯罪者の処遇を決めることになるだろう。それが安上がりだからだ。