教師への暴力というのは、管理教育以前からある。
そもそも、あらゆる生徒に応じられないにもかかわらず強制的に画一を押し付ける公教育という暴力的な仕組みが当然に成立しないときに
……成立しないのは当然だ、授業についていけずに、あるいは授業の程度が低すぎて、なぜそこに座らされるのか理解できない生徒は常に存在する、それだけではない、他の生徒と人間関係が合わなくても、そこにいつづけることが制度的に強制される。これは暴力である……
成立しないときに、さらに学校が強制によって押し込もうとするのが管理教育という症状だ。その機能は今でも部活とか強制ボランティアとか、さまざまな形で公教育の中に散りばめられている。
実際に教師の強制によって生徒が殺されるような事態も生じるのだから当然だが、その一つ一つはしばしば批判される。だからといって、そもそもあらゆる生徒に応じられないにもかかわらず強制的に画一を押し付ける公教育という暴力的な仕組みが当然に成立しないから、強制を緩めたら別の方向に向かう。
たとえば、教師への暴力、あるいは学校の設備の破壊、生徒同士のいじめ、あらゆる形で暴力は移転する。どうしようもない。
画一的に強制する仕組みを実現するために、強制力を強めたら生徒が死ぬ、それはいかんといって強制を弱めたら教師が死ぬ。学校は別の口実での強制を必死に探す。 そもそも暴力的な仕組みを清算しないのだから、罰ゲームが連鎖する。
毎年たくさんの顧客を殺しながら持続するような商売はない。 民間企業なら暴力がそこまで発達する前に倒産して終わり。本来なら消えるはずのゾンビを税金を使って無理やり温存しているというのが公教育の姿だ。
それ自体が本質的に暴力なのだから、清算しないで暴力を消すことはできない。それでも無理やり強制力で縛り付けようとするなら、たとえば、学校を刑務所のようにすることがひとつのゴールだ。ただ閉じ込めるためだけに存在するなら、人は死なないで済む仕組みができるかもしれない。でも、そんな「教育」を税金で養う必要があろうか?