労働基準法は憲法25条に定められた生存権を根拠としているという説明がなされることがしばしばある。たしかに動労基準法の第一条には「労働条件は、労働者が人間らしい生活ができるものでなければならない」旨を規定されているから、うっかり納得してしまいそうになる。
でも、素直に納得する前にちょっと立ち止まって考えてほしい。
国家権力を制約するはずの憲法が、なぜか国民同士の雇用契約を国家権力が制約する根拠とされていて、国家権力による取り締まりまでしていて、そのさじ加減を国会議員が相談して決めるというのだから、不思議ではないだろうか?
労働基準法は、政治的強者に都合よく雇用契約の枠組みをいつの間にか決められてしまう法律である。「裁量労働制に反対」している人も、実はそれこそが嫌なのではないだろうか?
そう、権力者に働き方を勝手に決められてしまうことが不気味なのである。
雇用契約は、当事者同士が相談して決めるものであって、議会で政治的強者が相談して決めてよいことではない。 少なくとも、政治と癒着した大企業の代弁者たる与党と政治と癒着した大企業の労組の代弁者たる野党が支配する議会に決めさせてよいことではないはずだ。
経団連などの大企業の経営陣と、連合などの大企業の労組が、なんで労働者全員の雇用契約に関与できるのだろうか?
彼らが多数議席を得るのは、単に規模が大きいからである。それだけのことで、全ての人の雇用契約に関与する横暴は、もちろんおかしい。どれくらいおかしいのかというと、憲法違反と言ってよい程度におかしいのである。
いつのまにか既成事実化しているのだけれども、実は「労働契約の基準を議会で定める」ということ自体が本質的に無理なことをしている。どれくらい無理なのかというと、政府を制限するための憲法をひっくり返して、国民を制限するツールと読み替えないと押し通せないような無理をしているのである。
実は、労働基準法の存在そのものが立憲主義に反するのかもしれない。
労働者の地位を高めるために本当に必要なのは、「嫌な雇用主は蹴っ飛ばせばいい、それで困るのは雇用主」という環境をちゃんとつくることだ。そのためには、政治に雇用契約を制限させることではなく、乱暴な雇用主を温存する補助金や助成金のような税負担を前提とした企業優遇の廃止こそが必要である。
もちろん、経団連も連合も、与党も野党も、そんな話にはそもそも触れようとさえしない。彼らは政治的なお金の流れをコントロールできる立場にいるからだ。
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