「金持ちにどんどん金を使ってもらいましょう、贅沢してもらいましょう」
という人もいる。だが、金持ちにお金を使わせなければならないという主張は根本的に誤りだ。別に使ってもらう必要はない。
「金持ちにどんどん金を使ってもらいましょう、贅沢してもらいましょう」
という人もいる。だが、金持ちにお金を使わせなければならないという主張は根本的に誤りだ。別に使ってもらう必要はない。
左利きに書き順を強いることを何十年もやめられない公教育に求めることができる「多様性」ってなんだろうか?
公教育が民主主義の多数決で選ばれる政府の下にある限り、せいぜい多数の大人が共感する範囲だけの多様性しか気にしない。
ぼんやりした大人が気づかないけれど子供でも分かるような差異を公教育があまりにもたくさん無視している、 という事実を無視したら、学校のいじめなんて無くなるはずがないと思う。
労働基準法は憲法25条に定められた生存権を根拠としているという説明がなされることがしばしばある。たしかに動労基準法の第一条には「労働条件は、労働者が人間らしい生活ができるものでなければならない」旨を規定されているから、うっかり納得してしまいそうになる。
でも、素直に納得する前にちょっと立ち止まって考えてほしい。
国家権力を制約するはずの憲法が、なぜか国民同士の雇用契約を国家権力が制約する根拠とされていて、国家権力による取り締まりまでしていて、そのさじ加減を国会議員が相談して決めるというのだから、不思議ではないだろうか?