『競争原理が必要なのは、その前提として「必要なものが足りない」からであって、うまく政府が分配すればみんな満たされる「足りている状態」なら、競争する必要はないはずである。』これは、しばしばみられる勘違いであって、因果関係をひっくり返してしまっている。
というのは、「必要なものが足りている状態」は自由市場の機能によって生じうるのであって、「必要なものが足りない状態」には政府の介入によって陥るからだ。
価格の機能
市場における価格は、何が世の中に必要とされているのかを知る手段である。
需要が供給を上回れば価格は上昇し、その逆なら価格は安くなる。人々は自ずと価格が高いものを作る動機を持ち、価格が安くなってしまったものの生産から撤退していく。これが市場における価格の機能だ。
何が必要なのか知る手段が無ければ、必要なものを作るために使われたはずの資源が、不必要なものを作るために費消されてしまう。市場競争を停止したら、自ずと必要なものが足りなくなり、代わりに無駄なものが増える。
市場競争を排してよいのは、どんなに無駄なものを作っても必要なものが供給できる場合に限られる。つまり、人間の使える資源や時間が無限である場合だけである。現実には、人間の使える資源や時間は有限であるから、市場経済における競争原理を排除した場合、自動的に供給過剰や供給不足に陥ってしまう。
競争原理が働かないならば、必要なものが足りている状態はそもそも生じない。「足りている」状態は、市場が作るものなのである。
市場競争
競争という言葉には熾烈なイメージがある。
だが、市場における競争とは、分業して他者と交換したほうが楽に物を手に入れることができる場合に、より楽な手段を選ぼうとすることを競争と呼んでいるにすぎない。もちろん、みんなが自給自足しているなら「足りている」ということができる。それで満足するなら競争なんて必要ない。単に頑張れというだけでよい。
人は一人で生きることもできる。野山を走りまわって動物を狩り、木の実を拾い、海に出ては魚を釣り、畑を作って耕すこともできる。自分自身の力で自然から手に入れた財によって生活することができる。ただし、このような生活は効率が悪い。人生の多くを、衣食住を獲得するために費やさなければならないし、それだけでなく、飢餓に陥ったり、凍え死ぬリスクも高い。子孫を作ろうと思えば、同じような生活をしている人とばったり出会う運命に恵まれなければならない。効率の悪さは弱者を生かし続けない。体力と知性と運とに恵まれた者だけが生き残り、全てを作り出すことができる者だけが生き残り、そうでない者の命を奪う。
人は、他人と手に入れた財産を交換したり、自らの労力と他者の財産や労力を交換したりする。これが、取引である。自由な交換によって経済は発達し、人々はより効率よく必要な財物を手に入れることができるようになった。他者が必要とするものを知ることができ、自分の余剰の資源と他者の余剰の資源を交換できるようになったから、狩猟が得意であれば狩猟に集中することができたし、農業に適した土地を持っているなら農作物の生産に集中することができた。
もし自由な交換ではなく暴力による奪い合いをしていたなら、たまたま欲しいものを持っている相手に出会わなければならない。それでは非効率なのである。市場競争によって、暴力による競争をやめ、より効率よく資源の分配が行えるようになったことで万能でなくてもよくなった。だから、多くの人が生きられるようになったのである。
市場における競争とは、消費者に求められるモノを作り出す競争だから、本質的には穏やかだ。他者の成果と自らの成果を交換したければすればよいし、交換したくなければしなければよい。競争に負けるといっても単に自分で作るより安上がりに製品を買えるようになるという話だ。
生産の計画
もちろん、そうしたければ、自給自足してもよい。あるサイズのコミュニティを作って、「正しく」分配すれば高い生産性が維持できると考える人もいる。もちろん、望む人たちが適切な単位のコミュニティを作って運営してみればよい。実際、しばらくの間はある水準では生活できるはずだ。
歴史的にも人間はある実際にコミュニティに生活を強く依存して暮らしていたし、生活協同組合や企業の生産計画は実際に機能している。自由主義経済はそのようなコミュニティを作ることを否定したりしない。
現在であればテクノロジーが発達しているから、百年前よりずっと簡単に自給自足できるだろう。他者と成果を交換しなくてよいなら、競争なんて必要ない。他者と成果を交換したい人だけが勝手に成果を交換すればよいだけだ。
市場を介して欲しいものを選ぶよりも、計画的に何を生産するか決めてしまったほうが生産性が高いなら全く問題ない。仮にそうすることで生産性が低かったとしても、コミュニティの外でもっと安く作られたモノやサービスを買いたいと思わないなら問題は起きないだろう。
コミュニティの外界で作られたものが欲しくなったときに、交換に供するだけの財が生産できていないとすれば、それを生産性が低いと呼ぶと言うだけの話だ。
社会主義政策の失敗
だが、計画経済を国家の持つ強制力によって実施しようとすると事情が変わる。とくに、コミュニティを作って分配を強制してみた結果、生産性が低かった上にコミュニティ内部の失敗に対処できなくなった場合に問題が起こる。
コミュニティ内部の問題を解決するための余力が不足した場合、典型的には構成員の将来の生産量まで担保に差し出させて前借りするか、外界から暴力で奪ってこようとするしかなくなる。そんなのは嫌だと言って脱出する人が増えればコミュニティは破綻する。つまり、計画経済の失敗だ。
国家権力を前提とした社会主義は、破綻を暴力によって避けようとする。より一層強く、人々を縛り付け、より簡単に資源を獲得する手段がコミュニティの外にあるのに、そうすることを許せなくなってしまうのである。
政府の失敗
最初に言ったように、市場競争を排除することは、なにが必要とされているのかを知る手段を見えなくしてしまうことだ。社会主義経済は遅かれ早かれ失敗するのはそのためである。非効率が是正されないまま、どんどん拡大してしまうのである。そして、失敗を暴力で取り繕おうとしても、事態が改善することはない。
失敗しないためには、全ての人々の欲求を完全に把握する全知全能の政府に運命を託す必要がある。人間や人間の置かれる環境というものは本質的に多様であるから、そんな知性は存在しない。民主主義の多数決でそのような知性を選べるという仮定は、驚くほど人間の多様性を軽視している。
数名の家族であれば、互いが欲しがっているものを理解でき、コミュニティの経済を維持するかもしれない。だが、数万とか1億人の規模になればそんなことは不可能である。多くの人が歪んだ経済に依存してしまうと、失敗を認めることが著しく難しくなる。
現実の国家
政府によって歪められた市場における不幸を、「市場の失敗」と呼ぶ人もいる。もちろんそれは、「政府の失敗」に他ならない。
人々の欲求を調整する為に必要なのは自由な交換に基づく市場であって、たとえ民主主義に基づいていたとしても暴力の行使ではない。政府の本質が強制力である以上、政府が問題を作り出すばかりで、決して解消することができないとしても、まったく当然なのである。
政府の強制的な分配があっても社会が一定期間維持されているとすれば、単に政府の統制の隙間で人々が自由な交換を行い、自発的に非合理を緩和しているだけの話だ。それは市場のおかげであって、政府のおかげではない。
市場における競争が穏やかではなく過酷なものだと感じるとすれば、政府の統制の隙間にある狭い条件で椅子取りゲームのような競争を強いられているからである。それはもちろん自由な市場における自由競争ではなく、政府の作り出した社会主義的な競争なのである。
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