マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

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自由市場が少数弱者を無視するという主張は、政府のプロパガンダに過ぎなくて、市場に少数弱者を放置させるバイアスをかけているのは政府に他ならない。

「政府によって歪められた市場で少数弱者が無視される」のであって自由市場で少数弱者が無視されるというのは全くの錯誤だ。

自由市場では、ある場所で排除された客は、商品やサービスの供給・提供が行われていない隙間市場として発見され、別の事業者にターゲットとみなされる。その小集団に特化されたサービスが生じる。十分に成熟した市場では、あらゆるマイノリティにとってその時点で期待できる最適なサービスが存在することになる。

市場から自由が失われてしまうと、計画者の計画に適合するように顧客側が調整することが要求されることになる。少数が多数に合わせることを強制され、 自らを調整できない人はそもそもサービスに出会うことすらできない。にもかかわらず、税として負担は強制される。(例えば現代の公教育を見よ、教室に座らされているだけで、無意味な時間を過ごす生徒がどれだけいるだろうか?)

現実社会でマイノリティにとって良いサービスが提供されていないとすれば、政府によって自由市場が歪められて多数派をターゲットとすることが強制されているからである。 多数の認定するマイノリティに対する優遇だけは獲得できるとしても、本当のマイノリティはいつまでも放置される結果になる。

実際にそうであるように、政府は次から次へと多数派向けのテーマを作り出してそこを税を使って補強しようとするから、事業者がニッチを開拓する動機・余裕が生じない。 余裕を作っても、政府がそれを盗んでいって、多数派向けに使ってしまうからだ。

自由市場であれば少数に向けたサービスが発達するはずであっても、国民の所得の43.9%(国民負担率,平成28年度)も政府に盗まれて多数派の選ぶ政府によって振り分けられる社会では、政府の計画と無関係に多様な事業が発達することを期待することはできない。

生きるためのリソースを奪われるだけ奪われて、戻ってくるときは多数派に偏る。それでは少数弱者は失うばかりである。

このような社会では、少数弱者は救済されるために多数派に可哀想な存在だと思われるしかない。もっとはっきり言えば、このような社会ではマイノリティは救済を求めて政党の票田にならなければならない。さもなくば放置されるし、仮に認められるとしてもより重要な票田の下位に序列されるというわけである。

政治は、市場がマイノリティを発見して必要なサービスを提供することを邪魔して、権力を膨張させる票田として利用する。これは、政治によるマイノリティからの搾取に他ならない。

「多数が全てのマイノリティに配慮しなければならない」と前提した場合にだけ成り立つ、「多数決で選んだ政府の力が本当の少数弱者を救う」という原理的にあり得ない幻想は、政治的強者による建前でしかない。

一人の人間は、たまたま人生が重なったり、たまたま見聞きして感じた人であればその人を助けたいと願うことができる。だが、一人の人間は全てのマイノリティを発見することはできないし、感じることはできない。「多数が全てのマイノリティに配慮しなければならない」といくら建前を掲げても、そんなことは不可能なのである。

少数弱者を救うのは、自発的に動く人々による発見と行動であって、その重ね合わせを自由市場と呼ぶという話だ。自由市場では、サービスを手に入れることのできない少数は次に開拓できるターゲットとして速やかに市場に発見される。

一方、民主制における政府は、多数派が救済を認めるまで少数弱者を放置する。 当然そうなる仕組みを採用しているのだから、そうなるのは当然なのである。 不可能な建前を掲げることも、権力を肥大させたいという動機だとするなら理解できる。政府や役人や政治家や政党がそれを求めるのは当然のことである。

明らかに、恐れるべきなのは自由市場ではなくて、自由市場の発達を政府が邪魔することなのである。従って、政治による介入は縮小し、廃止されなければならないという結論が導かれる。

 

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