真の民主主義は多数決にあらずという。だが、一人ひとりの意思を尊重するという立場なら、自由主義という言葉があるのだから、民主主義という言葉に執着しなくてもよいと思う。
自由主義を否定する立場から、自分に都合のよい「理想の権力」を正当化するために民主主義を信奉する人もいる。そういう人が民主制は多数決であるという以上の意味を民主制に与えるのは、論理的に無理なことだ。
政治家や役人や民主主義が建前の押し付け合いをすることだって、理想の押し付け合いである。その建前を壊したら、別のところでつじつまが合わなくなるような理想なのである。そもそも多様な人々が理想を共有できるなんて仮定が無理なのだから、つじつまが合わなくなるのは最初から当たり前だ。
「理想の社会」を共有するためのタテマエをどんどん補強してエスカレートさせれば、本当に理想を統一していかねければならない。それはつまり、人の考え方や生き方の多様性の否定に他ならない。
民主主義が自由を奪っていくことは、実は最初から予定されているわけだ。
1920年のトリアノン条約で分割されたハンガリー王国内の民族の分布を示した地図
国境で切り分けられ、少数民族となった人たちは、決して多数決で優位になることはない。 pic.twitter.com/7RHCDi6rYq
— ユキノシバリ (@yukinoshibari) April 11, 2016
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