「労働がどれだけの価値を生み出したか」ではなく「生きていくのにどれだけの費用がかかるか」によって給料が決まる。そんな社会を想像してみよう。
これを、怠惰を奨励する社会であると批判する人がいる。あるいはその批判に対して、怠惰を許さない社会よりマシであるとする人もいる。
怠惰という言葉から想像するのは、ゴロゴロとだらけた生活を送ることかもしれない。そんな状態が実現できたら楽ちんだ。だが、ここでいう怠惰の奨励とは楽な生活を送ってよいことではない。何の価値も生み出さない労働を強制することである。つまりそれは、強制される怠惰である。
何の価値も産み出さない労働でも政府の計画の中にあれば所得が保証される。一方、いかに価値を産み出しても政府の計画からはずれれば所得が得られない。政府がそれを労働と認定するならば、ただ穴を掘って埋めなければ生活できない。本来の意味で働き者になることが許されなくなってしまう。生活は保証すると政府は口先で言う。だが、政府自身は何かを生み出すわけではない、政府が根拠とするのは将来の課税である。
今でも政府に近いところで働いている人は、実感しているはずだ。目の前の人に喜ばれることをしたい、だけどできない。決められたタスクに価値がないと知っていてもこなさないといけない。目の前の人が苦しんでいる人がいても助けることさえできない。もっとマシな仕事ができるのに、怠惰を強制され、人生を消費していくことを強制されているのである。
目の前の人を助けられない、それでは当然、他人も自分を助けてくれなくなる。どんなに困っていても、国が気づくまで放置される社会を感じるだろう。
そういう社会では、いちいち大騒ぎする。多数を説得しないと、自分を決められないからである。結局、国の権力に依存した社会は、悲鳴と罵倒ばかりだ。価値を生み出す必要があっても、できると知っていても、そうしないことが強制されてしまうからである。