公的社会保障が健康ファシズムを作り出す理由

政府の社会保障とファシズムには直接の強い結びつきがある。

政府による生活への介入がどのように、なぜ起きるのかを理解するために、公的社会保障と健康ファシズムを取り上げてみよう。

公営社会保障は、強制された疑似的な助け合いである。(もちろん、自発的でないのだから、助け合いというよりは奪い合いである)

公営社会保障の下では、もしも誰かが不健康を放置すればそのコストを他者が強制的に負担させられることになる。そのため、「助け合い」の強制はその存在自体が国民に健康である義務を国民に要求する。

公営社会保障は、喫煙の禁止を要求するし、飲酒を禁止することを要求するし、もっとエスカレートすると政府が定めた食事を要求するようになるかもしれない。つまり、自由を奪うことが運命づけられている。

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義務感と良心

良心や善意は自発的であるからこそ意味がある。強制によって生じることはない。他者に作られた義務感や使命感と自分の内側にある良心は区別しないといけない。

自由を奪おうとする者は、義務感や使命感をでっちあげて良心と同じものであると錯覚させようとする。でも本当は、それらはまったく異なるものだ。自由を奪う者が他者の良心や善意を破壊していることを無視して、自由を奪われた者にそれらが欠けていると非難する。自分は使命感をもって取り組んでいるのだからお前もそうしろ。これを守るのは義務だからお前も守れ。そんな強制が良心とか善意を導くはずがあるだろうか?

そんなことをしても苦しくなるだけである。自分の助けたいものを助けることができなくなって、人は楽になったりしない。他人に作られた義務感のために自分の本当の感情を圧し殺すことを強制されることは辛いことなのである。強制は、良心や善意が生じる機会を壊し、苦痛を憎悪を導くだけだろう。

自分で選ぶことのできない者には、良心なんてあっても意味がない。だから人は自由に選ぶ余地を失うと良心と呼べるものを持てなくなる。義務感とか使命感しか持てなくなる。あるいは、あきらめしか抱かなくなる。

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自民党の党是

「改憲は、立党以来の党是」と自民党は言う。

実際、日米安保体制を正当化するか、日米相互防衛条約に移行するか、いずれにしろ憲法改正が必要だという態度は1955年から変わっていない。そして、 岸政権以降は前者が一貫している態度である。

自民党の改憲を根本から否定したければ、日米安保体制そのものを否定すればよいわけだ。だが、民進党はそんなことは絶対にしないし、野党共闘なんてカードをだした共産党も実質的にそれを放棄した。

今となっては、与党も野党も日米安保体制の枠組みの中に利権を持っている。それをなんだかんだと言い換えても、ごまかしから生まれるものはごまかしでしかない。建前と利権の膨張しかないというのが、実際に半世紀以上ずっと起きてきたことである。

それは実際に半世紀以上ずっと起きてきたのに、今回は酷いとか今回は最悪とか言い続けるのも変なのだ。なんで、今までの分は否定しないのか?要するに、そこにぶら下がっているから、否定できないのである。

なぜ、政府の与えるものにぶら下がろうとするのか?それをやめなければ、権力に従属するだけだ。

最低賃金規制と雇用保護の両立という矛盾

最低賃金を上げろと叫んでいる政治団体は、一方で中小企業を補助しろと言っている。これは、本質的に危険なことだ。

最低賃金を上げろ、雇用は保護しろというのは、絶対に両立できないものである。最低賃金を上げればその賃金で回せない事業者は雇用することができなくなる。無理に事業を維持するよりも、事業を畳むことを選択するだろう。

彼らは一方で、賃金を増やせないのは経営者の無能だと言いながら、中小企業を税金で補助しろと言っている。これは問題を複雑にする。

高い賃金で人を雇用できてそれで事業を回している事業者に負担させて、最低賃金を増やして回らなくなる事業者を税金で補助したら、彼らの言う無能な経営者を補助するためにまともな事業者に負担させることになる。

自分でまともな雇用主を選んだ人や、まともな経営をしている人が、まともでない経営者のために負担を強いられる。最低賃金規制と雇用保護の両立は、公平とは言えないのである。

自由と道徳

殺人の自由

飲食店内でのタバコ規制に反対するというと、殺人の自由をなんでお前は主張しないのだ?という乱暴な意見が投げかけられてきたりする。それによって、自由とは危険なもので規制されるべきだという詭弁である。

殺人の自由を提示することによって自由を否定することはまったく間違っている。他人を殺すというのは、他人の自由を完全に奪う行為である。自由を尊重するという立場からは決して許されるものではない。同様に、他人の私有地でタバコを規制するというのも、他人の財産の自由を奪うことである。

政府の規制

公の施設で喫煙を禁止するというならともかく、飲食店は所有者のある私有地であるから、規制は財産の自由と営業の自由を奪うことになる。禁止するか許可するかは、本来所有者が決められるべきことである。公有地で自由を制限することは区別しないと混乱が生じる。

現に政府が個人の自由を頻繁に奪っていることは、そもそも不当なことである。人は他者の自由を奪う権利を持たない。公の権力は、たかだか複数の人の総意に過ぎない。多数決で選ばれた代表者であっても、個人の自由を奪う権利を持たない。つまり、公の権力が自由を奪うことは、肯定されるべきものではない。

自由を与えればヘイトスピーチだろうが人前での喫煙だろうが、なんでもまかり通ると主張する人は、自由の力を理解できていない。それは、政府の強制力の中で暮らして、そうでない状態を想像しようとしないからである。

自由な社会はどのように機能するか

理想的に自由な社会では、どんなに失礼なことを言おうとも、それが他者の自由を奪うものでなければ肯定される。つまり、政府の規制がなく自由である。

だが、迷惑をまき散らしている人が生きていけるかどうかは当人の責任である。乱暴なふるまいをする人は、他者から嫌われ、協力関係を築くことが難しい。他者を尊重しないふるまいは不利益が大きくなる。

自由でない社会では、国が税を介して私たちの生活に介入する。どんなに嫌な人間でも、多数決が要求する限り強制的に助けさせるのである。迷惑をまき散らしている人をも助けることが強制されるから自由な社会とは異なり、乱暴者が乱暴でいることによって不利益が生じない。

人々の乱暴な振る舞いの多くは、政府の保護があるからこそなされるものなのである。

憎悪は自由を奪われることによって生じる

ヘイトスピーチや排外主義というものは、国の干渉が助け合いを強制することによって生じるているという一面もある。

自由な社会であれば、単に嫌な相手から距離をとれば済むのに、国の干渉を大きくすれば、国によって狭い共同体を強制されるから、距離をとる自由が失われる。どんな動物でも、不安なら離れて観察し、少しずつ近づく。そうでないと危険だから、怖いのだ。だが、無理やり狭い柵の中に入れれば、互いを牽制するようになる。嫌な人も付き合うことを強制されてしまうから憎悪や恐怖を引き起こしてしまうのである。

結局、国の規制を大きくして自由を制限することでヘイトスピーチをなくせという考え方は、基本的なところに欠陥のある無理な話だ。実際にヘイトスピーチ規制を導入すれば、国の干渉を大きくして自由を制限することはできるけれど、それによって憎悪がなくなるわけではない。それは、政府を肥大させる結果にしかならず、ヘイトスピーチは姿を変えた別の形の憎悪に変化するだけだろう。

自由な社会は穏やかである

自由な社会では、迷惑をまき散らしながら生きることは、そもそも選択されない。無理に乱暴な生き方を選択したら、他者と協力関係を築くことが困難になり、苦労することになるからだ。

制限された社会では迷惑をまき散らしながら生きても平気だ。場合によっては、そのほうが得になってしまう。だからいつも乱暴な話になるし、その反動も大きなものになる。

自由な合意の重ね合わせによって生じる自然な秩序の中にいる者は、他者をないがしろにすることができない。損するからだ。規制の積み重ねで作られた強制力の枠の中にいる者たちは、規制を出し抜いたり、抜け道をわざと作ることで得してしまう。それが、利権とか搾取というものである。

自由な社会は、規制だらけの自由の奪われた社会よりも、ずっと穏やかなのである。

自由な社会では、道徳を自然に身に着ける

善悪を感じ分ける能力が淘汰されずに生き残るのは、進化の中でも、文化の中でも、成長の中でも、その方が都合がよかったからだろう。

善悪というものは、そもそも損得と結びついていないはずがない。自由な社会であるならば、自然に生活する中で、互いに、その方が得だという事実を、教え続けることになるだろう。

ところが、自由な社会でないなら善悪と損得の関係は簡単にひっくり返ってしまう。乱暴なふるまいをした方が得になってしまうようになる。こうして、自由のない社会では、道徳を強制的に教えなければならない前提が生じてしまう。もちろん、そのような乱暴な社会では、不自然な道徳の強制によって得するのは道徳や倫理を蹴っ飛ばす乱暴な人である。