無責任で危険な公共事業

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安心でも安全でもなんでもよい。せめて、問題が起きたときに賠償するのが誰なのかくらい、最低限はっきりさせるべきだろう。公共事業や政府の関与した国策事業といった公営事業の事故や失敗をみるたびにそう思う。

責任を負うというのは頭を下げることや言い訳をいうことではない。最終的に問題が起きたときにその費用を弁済することである。誰かが経済的責任を負ってリスクを評価できるというなら、その人が責任を負って事業をすればよい。だが、そうでないなら始めるべきではないだろう。

政府の関与しない純粋な民間事業であれば、失敗の責任は当事者にある。ところが公営事業の場合には事情が大きく変わる。失敗したときには納税者が負担しろという話になってしまうのだ。

だが、問題が起きたときに賠償するのが納税者だと言われても、そもそも納税者はリスクをチェックする機会を持っていただろうか?多くの人には評価するための材料すら与えられないし、リスクを評価する能力だって持ち合わせていないだろう。勝手に評価する義務を加えられても困るというものである。

ところが、納税者は強制的に「責任」を負わされてしまう。最終的に責任を取る者がリスクを評価しない、それでも無理やり推し進める。あらゆる公営事業は本質的に無責任なのである。

うまくいっている間は関係者の利益にして、うまくいかなくなったら納税者の負担にする。リスクを評価できない大衆に責任を押し付ければ、リスクを評価する必要がなくなってしまう。こうして他者の財産にリスクを背負わせると言う行為は本質的に搾取でもある。

公共事業の無責任は、単に搾取であるだけでない、社会にとって危険でもある。リスクを評価する過程を消し去って事業を行うことになるからだ。

現代の公営事業は規模が大きすぎて抱えるリスクもとても大きい。原子力の問題にみられるように、無責任の結果は現役世代では解決されず、将来へとつけまわす水準にまで膨れ上がる。場合によっては生命や国土への危険を及ぼすほど大きなリスクが放置されてしまうのである。

もちろん、事業とは「安全ならばよい」わけではない。公共事業の持つ本質的な無責任は、採算性を簡単に無視してしまうことである。安全のためのコストをいくらでもかければ事業を始めてもよいだろうか?そういうものではない、安全のためのコストを織り込んでなお、人々に豊かさをもたらすものでなければならない。

政府が無責任にコストを納税者に転嫁して人々の経済的自由を奪えば、人々が人生の他の部分でリスクを背負わなければならなくなってしまう。それを安全・安心と呼んでも、まったく意味がない。

公営事業が失敗すると、役人は頭を下げて謝るという儀式をする。だが、そんなものは何の役にも立たない。公共事業は減らし、責任のとれる民間の出資者、事業者が行うにまかさなければならない。なぜなら、公共事業は無責任であり、搾取であり、しかも危険であり、しかも、非効率だからだ。

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