感覚と思考、科学とは何か?

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一般化する前に、もう一つ同じような議論をしてみたい。私たちが自由に考えるとは本来ならどういうことなのだろうか。

感覚

私たちは、神経を開いてそこに立つだけで自然に鮮やかな世界を感じるし、考えることをやめて身を心に任せれば、過去の記憶を次から次へと想像することができる。そんなはずはないと思ったら、ほんの数時間でよいから自分で実験してみるとよい。実は、私たちは驚くほど鋭い感性を持っている。

人間のように言語的に思考できない動物の世界を想像してみよう。動物たちはきっと、人間よりはるかに思考ではなく感覚に頼って生活している。過去の記憶を、人間ほどの長期記憶がないとしても、もっと鮮やかにフラッシュバックさせながら想像を繰り返しているのかもしれない。そして、楽しいとか苦しいといった感覚をもっと鮮烈に受け止めているはずだ。ひょっとすると、私たちよりはるかに鮮やかな世界を見ているのかもしれない。

そんな感覚というものは何故存在するのだろうか?きっと、怖いものを避け、痛みを感じれば癒し、楽しいと思う関係を維持するといった形質は、それがなければ生存を脅かすほど大切なものだったはずである。

感覚もまた生き残った動物が進化の中で保存した形質であるということに注意すれば、生き残りのために必要不可欠だったということが想像される。そう、私たちは感じることができるし、さらに過去を思い出したり、未来を想像することができる。

思考

私たちは、テーマを心の中に決めて、何が起きるのかを漠然と思ったり、何が起きたのかを論理的に考えることができる。思考というものが、より遠くの物事を感じるための手段として感覚を拡張したものなのであるとすれば、感覚と思考というものはまったく連続性を持っている。つまり、人は脳を肥大させる進化の過程の中で、見えないものを想像したり、経験したことの無いものを想像したいという衝動を獲得した。そして、思考するという形質を獲得するに至ったのであろう。

結局、見えないものを想像したり、経験したことの無いものを想像したいという衝動もまた、人類が生存競争を生き残るために不可欠な形質だったのである。

思考による縛り

私たちは考えることができるから、衝動に身を任せなくてよくなる。思考は自分で制御できるし、あるいは他人に指示されて制御されることもある。考え方を、教育によって獲得することもできる。それこそが思考によって獲得した自由である。

一方、感覚と思考を比べると、感覚とはまったく衝動的で選択できないものであって、次から次へと生じるものである。それに対して、思考は一旦テーマを決めれば心がそこに縛り付けられてしまう。心の中まで縛られるはずがないと思い込んでいるかもしれない。けれども、感覚と比べれば思考ははるかに容易に制限をうけてしまう。私たちは成長する過程で、深く考えるべきであるという教育を受ける。「もっとよく考えなさい」と教えられて、それを実践するようになるのである。まるでペットとしての犬やネズミが人間に教育されて芸を覚えるように、考えるという選択をパターンとして学習してしまうのである。

感覚と比べて思考とは制限を加えて自由を振り払ったものであろうか。いや、より自由に感じようとする衝動が、考えるという行動を生み出したはずだ。それにもかかわらず、注意しないと思考によって獲得した捉えやすさによって自らの心を縛ってしまう。

科学

私たちは、なんらかの強い衝動で心を開いたり、積極的に制限を取り除かない限り、思考に心の自由を奪われてしまいがちだ。現実の思考は大いに自由を失っていて、ひょっとするともっぱら感覚を抑えるためだけに利用してるのである。

もし、感じたいという衝動の延長に考えたいという衝動を持っているならば、本来の思考はまったく自由なものであるはずだ。自由な思考は、きっと感覚以上の鮮やかさを持っているに違いない。これが本来の学問……いや、権威主義的な性質のものと自由な思考をあえて意識的に区別するなら、科学というものだろう。

納得を積み重ねて論理的に仮定を置き、現実に可能な限りあてはめて繰り返し試すことで物事を実証する。そしてついに制限に突き当たることを知り、それを突破しようと試みる。思考の自由を与えるために理論を構築し、手に入れた自由をめいっぱい試して、新しい制限を見つける。新しく見つけた制限を解決するためにさらに想像する。その過程全てが科学である。

 

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