政府がヤクザを動員した歴史【アイク歓迎実行委員会】

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日米安保体制の構築過程は暴力団や右翼団体と切って切り離せない。政府は、日米安保体制の構築の過程では、反対運動を「警備」するための警察官の数の不足を補うために、右翼団体やヤクザを動員した。

1960年、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領の訪日前の日米安全保障条約の批准を予定していた。国民の反対の声は強く、連日10万人規模のデモが行なわれる状況にあった。自民党安全保障委員会は、右翼団体や暴力団の有力者と結びつき、テキ屋、旧軍人、消防団関係、宗教団体、右翼団体、暴力団などを動員し、左翼の集会に殴り込みをかけさせた。

実は、街宣右翼、広域暴力団の大規模化はこの頃から始まった。

安保闘争

在日米軍駐留の固定化を約した日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約による西側諸国との片側講和と同時に結ばれた。1952年に調印されて以降も、政府は日本国内の激しい反発に晒されていた。遡れば、GHQ統治末期の1948年ごろから再軍備の動きが生じていた。朝鮮戦争を背景に進む日本の再軍備化の動きに対し、左派は反発の声を強めた。

外国の軍隊の駐留を恒久化する日米安保条約は内乱条項を含んでいた。内乱条項は、日本国内での内乱に対して外国軍による鎮圧を容認するものであって、抵抗権を否定するものだった。当然、さまざまな立場から批判された。

60年安保
60年安保闘争において、国会前に集まるデモ。30万人規模に拡大し、政府は警察・機動隊・右翼団体・暴力団を組織して対抗した。

政府は、対立する左派勢力を激しく弾圧した。労働運動弾圧やレッドパージが行われた。さらに、政府は右派の人工的な強化を行った。1949年ごろには神道指令の運用が大幅に緩和されるとともに、右翼団体の再結成が進んだ。この中に、右翼団体の再結成も含まれた。

1960年の安保条約更新において、政府が国会で反対勢力議員を強硬に追い出して採決を行なうに至ると、国会外でも最大規模のデモが行なわれるようになる。

http://shibari.wpblog.jp/archives/12730

アイク歓迎実行委員会

自民党は結党当初から、左派の集会に殴り込みが行なわれたり、労働運動に右翼青年を潜り込ませてスト破りを行わせるといった形で右翼団体を用いていた。さらに日米安保への反発が高まる中、岸信介首相は左派の伸長に対抗するために、児玉誉士夫らを通じて右翼団体や暴力団との仲介を得た。太平洋戦争以前から結びついた、権力と暴力の人脈だった。

彼らは右翼団体・暴力団に広く呼びかけ、「アイク歓迎実行委員会」と呼ばれる警備組織(暴力組織)を組織させた。デモと対峙するための人材を確保する必要があったとき、警察官では不十分だったからだった。

アイク歓迎実行委員会の結成は、文字通り最大規模だった。政党と警察、ヤクザが表だって連携した出来事となる。安保条約承認に際しては大型トラック20台、スピーカーを備えた指揮車、セスナ機、ヘリコプターなどが準備され、人員輸送のために静岡県と神奈川県のバスが全て貸し切られるほどだった。

当時、警視庁の警察官数は24000人であったのに対して、稲川角二会長率いる錦政会(後の稲川会)や「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組の尾津喜之助組長などの率いる博徒1万8000人、テキヤ1万人、さらに、旧軍人、消防関係、宗教団体など1万人、右翼団体4000人、その他5000人の動員が可能になるまでに膨れ上がり、最終的に4万人規模の集団を構成した。

右翼団体の連立構造の発達

ヤクザの影響力がなければ日米安保体制は成立せず、日本のヤクザは日米安保体制を維持するための辻褄合わせとしてポジションを得た。

政府と強力に連携したことで、60年安保を通じて右翼団体・任侠団体の大規模な連立が進んだ。1959年4月19日には、右翼団体全日本愛国者団体会議が設立した。1964年の第6回大会までに参加団体数は440団体に増加した。代表的な参加団体には、旧玄洋社に由来する生産党(1931年結成)や、同様に玄洋社に由来し、現在では山口組の二次団体となっている国粋会などが含まれた。また、児島誉士夫系の青年思想研究会、政財界と結んだ新日本協議会、日本会議の前身となる日本を守る国民会議などが成立した。

結局、現在に温存される任侠右翼・広域暴力団組織は、安保条約を強硬通過させる局面において納税者から集めた税を還流させることで肥大し、組織化が進み、政治と一体化することになった。

http://shibari.wpblog.jp/archives/13244


ハガチー事件/樺美智子死亡事件

衝突しないはずがなかった。

1945年6月10日には、アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせのために来日したハガチー大統領秘書官が乗る車が安保改正阻止を掲げるデモ隊に取り囲まれ、海兵隊のヘリコプターにより助け出される事件が起きた。

6月15日には、警官隊による放水によってデモ行進が混乱デモに参加していた女子大生が死亡する事件が発生した。

紛争が混とんとする中、6月17日、産経新聞社・毎日新聞社・東京新聞社・読売新聞社・東京タイムズ新聞社・朝日新聞社・日本経済新聞社大手新聞の在京新聞7社は、「理由のいかんを問わず、暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を掲載した。

機動隊の行動に対する責任を問わず、また政府側・右翼団体による暴力に言及せず、デモ隊の行動のみを批判した。新聞は、政府に事態収拾を求めながらも、その責任追及を行うことはなかった。

結局、アイゼンハワー訪日は取りやめとなり、6月23日の自然承認と条約発効を待って、岸政権は退陣した。

http://shibari.wpblog.jp/archives/13891

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