攻撃されなくても攻撃を捏造して反撃を正当化する、こうした手段は珍しいものではなく、歴史的に繰り返されてきた。
1964年、米国政府がベトナム戦争に介入する口実として、北ベトナムが一方的に魚雷攻撃したとでっちあげたトンキン湾事件もその一つだ。
この出来事は、日本とその隣国である韓国にとっても無関係ではなかった。当時、日本政府や韓国政府が体制を維持するためには、ベトナム戦争が起こることが必要だった。
同時期に結ばれた日韓基本協定は、東アジアの戦争経済を駆動するために機能した。戦争特需によって延長された高度経済成長が、その後の日本の経済構造を基礎づけ、韓国の朝鮮戦争後の復興を可能にした。
米国政府と米国に協力・依存する政府にとって、体制維持のために戦争経済が必要だった。トンキン湾事件は、いわば「国益」だったのである。
トンキン湾事件

1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したと説明された。
これを根拠にアメリカ合衆国政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。米国議会は、上院で88対2、下院で416対0で大統領支持を決議した。
7年後の1971年、『ニューヨーク・タイムズ』が、トンキン湾事件がアメリカ合衆国政府が仕組んだ物だったことを暴露した。
このとき明らかにされた文書”History of U.S. Decision-Making Process on Viet Nam Policy, 1945-1968″ 「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」)は、ペンタゴンペーパーズとして知られている。(全文:米国国立公文書館:Pentagon papers)
ペンタゴンペーパーズによると、合衆国政府は1964年2月1日の時点で、サイゴンの米軍事援助軍司令官の指揮下に「34―A作戦計画」という北ベトナムに対する広範な秘密作戦をすでに発動していた。情報収集、破壊活動、沿岸施設の砲撃に始まり、最終的に、北ベトナム経済の中核部を破壊するというものだった。
事件当時、北ベトナム外務省は、マドックス号が北ベトナムの「領海内で」北ベトナムの哨戒艇に出会い、哨戒艇を砲撃したのだと反論していた。合衆国政府は、米国の駆逐艦マドックスと僚艦C.ターナー・ジョイが北ベトナムの魚雷艇によって一方的に攻撃されたと主張していた。
日本や西側諸国のメディアは、米国の発表を根拠のないまま無批判に報じた。
結局後で分かったことは、米国による〈宣戦布告なき攻撃〉、あるいは戦争を引き起こすための米国による自作自演テロだったというものだ。合衆国政府は、自衛権の行使を口実にベトナム戦争を本格化させていった。
暴露されたベトナム戦争と1968年革命
エスカレートしたベトナム戦争は泥沼化し、最終的に1000万人以上の死者と行方不明者を作り出した。

泥沼の戦争がリアルタイムで報じられることを経験した世界の反応は劇的なものだった。
1968年、ベトナム反戦運動はアメリカ合衆国国外にまで拡がり、日本では学生らがアメリカ軍基地に抗議の声をあげ、イギリスではアメリカ大使館がデモ隊に包囲され、フランスではパリ五月革命が起きた。
日本との関係
トンキン湾事件の背景で、日韓基本協定が結ばれていた。

このころすでに日本の高度経済成長は一旦停滞し始めていたし、朝鮮半島は戦争によってボロボロに荒廃していた。
60年安保を強引に通過させて不安定化した日本政府、李承晩の独裁政権が民衆に打倒されてしまった韓国、それぞれで米国政府従属型の体制が不安定化していた。
ベトナム戦争の拡大は、当時の米国にとって(あるいは日本政府にとっても)、テロ事件を捏造してでも強行したいという政治的な動機があった。

実際、ベトナム戦争の拡大の結果、日本では池田政権下の所得倍増計画は成功した。韓国では漢江の奇跡と呼ばれる百倍ともいわれる経済成長に成功した。
東アジアで共産圏に囲まれ、資源をはるばる運んでこなければならない地理条件の中で、日本や韓国が画一的な大量生産を軸とした工業国としてのポジションを得た背景には、戦争があった。
日本や韓国の体制維持は、米国にとっての「戦争の利益」の一つだった。そして、日本や韓国の保守体制にとってもベトナム戦争は体制を持続的に強化するために必要な〈国益〉だった。
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